
山口俊(元DeNAほか)や脇谷亮太(現・巨人コーチ)、田中瑛斗(巨人)ら多くのプロ野球選手を輩出し、甲子園出場も過去に10回を数えた大分・柳ヶ浦高が、今春20年ぶりに聖地へ帰ってくる。
かつての名門を復活に導いたのは、就任3年目の鈴木聡監督だ。
【縁もゆかりもない大分へ】
OBではなく横浜育ち。武相高から関東学院大に進み、4年時には副将として全日本大学野球選手権準優勝に貢献した。そのままコーチを務め、2011年から監督に就任しリーグ優勝に導いたこともある。
だが2018年11月で退任。学校職員ながら野球一色だった生活から一変し、新たな配属となったのは学内の食堂だった。皿洗いの仕方すらわからず、すぐに辞めたくなった。
そんな時、支えになったのが監督仲間たちだった。当時日大三高の監督を務めていた小倉全由氏(現・侍ジャパンU−18代表監督)が「何があっても、そういう時間が後々大切になるから」と伝えてくれるなど、多くの励ましに救われ心機一転。その翌日から自ら進んで何事もこなすようになると、周囲が手伝ってくれるようになった。
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その後異動があり関東学院六浦高の事務職をしていた頃、再び監督仲間から手が差し伸べられた。「退任時に本当に親身になってくれました」と、今でも感謝する柳ヶ浦高OBの生田勉氏(亜細亜大前監督)から「聡に(母校の監督を)託したい」と声をかけられ、縁もゆかりもない大分へ。
再びユニフォームに袖を通すとともに、初めて高校野球の世界に足を踏み入れた。高校野球と大学野球でさまざまな違いはあるが、「これまでの経験を伝えたいですが、これまでとの比較はしたくありません」と鈴木監督は言う。
たとえば大学では1回伝えればわかってもらえたことも、高校生ではすぐに忘れてしまうこともある。それを「なんでだよ」と思うのではなく、根気強く伝え続ける。内容は技術面よりも「挨拶や返事、掃除をしっかりやろうと言ったことが多いです」と、精神面や姿勢面についてがほとんど。
プレーに直接つながるわけではないかもしれないが、人の気持ちになって考えることが、チームメイトの気持ちや対戦相手の狙いが分かり、野球にもつながってくる。
【敗戦から学び、20年ぶりの甲子園へ】
15年近くチームに携わる瀬戸学部長は「礼儀であったり寮生活であったりを鈴木監督が変えてくれました」と証言する。
「以前は下級生の仕事というものがあったのですが、学年関係なく全員でやろうとなりました。あとは"できないことはできるまでやらせる"。環境整備、校歌をしっかり歌う、全力疾走、カバーリング......誰でもできることはしっかりやりなさいという教えです」
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いきなり皆がそれをできたわけではないが、鈴木監督ら指導陣が言い続けることで徐々に選手たちにも浸透してきたという。
選手たちにとっては耳の痛い話が多いが、主将の田原光太郎は「常に自分たちのことを思って指導してくれる熱い方」と鈴木監督を信頼。「その気持ちが伝わってくるので、監督を信じてやってきた。それが甲子園につながったと思います」と、まっすぐな瞳で答えた。
秋の九州大会ベンチ入り20人に身長が180センチを超える選手はひとりもおらず160センチ台や170センチ台前半の選手が中心だ。甲子園出場校の選手の大型化が進んでいる中では珍しい。
鈴木監督は「もちろん大型チームは理想ですよ」と前置きしながらも、中学生を視察する際に最も重きを置くのは「本気で野球が好きかどうか」という点。今の新3年生から鈴木監督が生徒募集をするようになったが、最初に目についたのが主将の田原で、プレーよりも「あのセンター、声出ていていいなあ」ということが何よりの第一印象だったと笑う。
そして、そんなひたむきな選手たちは、秋季九州大会予選前の2大会(私学大会、県選手権支部予選)で初戦敗退を喫しながらも、「できることをきっちりやろう」と足元を見つめ直して九州大会で4強まで躍進。20年ぶりの甲子園切符を掴んだ。
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数年前は「高校野球の監督になるとは思っていませんでした」と話す鈴木監督だが、「今となれば大切な時間だったなと思います」と振り返る紆余曲折を経て、野球小僧の選手たちと初めての甲子園の土を踏む。