インタビューに答える、映画「わたしの魔境」を手掛けた天野友二朗監督=8日、東京都北区 オウム真理教元信者や元死刑囚の親族らへの取材を基に、若者がカルト教団に染まっていく様子を描き、数々の国際映画祭で受賞・入賞した映画「わたしの魔境」。地下鉄サリン事件から間もなく30年となるのを前に、作品を手掛けた天野友二朗監督(34)に話を聞いた。
▽挑戦者を笑う風潮
映画のタイトルにある「魔境」は禅の用語で、夢や目標に打ち込んでいる人が「私は人とは違う特別な努力をしている」「優れている」と自我肥大し、他を見下す状態になることを指します。
現代は挑戦していない人が挑戦している人を笑う世の中。例えば、会社ではリスクを負わない部下が上司を評論し、ネット上では矢面に立っていない人がアーティストやアスリートに石を投げる。中途半端に自我肥大した状態で他を評論する人がすごく多い。「魔境」はオウムと現代に通じる、警鐘を鳴らせるテーマだと思いました。
▽ミニカルト乱立時代
日本人は当時も今も、ありのままの自分を受け入れる感覚が弱い。カリスマに身を委ねると、自己決定のリスクを負わずに済むから楽なんですよね。信者たちにとって麻原彰晃(松本智津夫元死刑囚)は、大きなお父さんのような、自己を肯定してくれる存在に映ったのではないでしょうか。
30年前と比べて「個」を尊重する時代になり、麻原のような強烈なカリスマが一つの帝国をつくることは難しくなったかもしれません。でも社会構造は変わっていない。SNS上ではリテラシーのないネット初心者に対し、「必ず稼げる」と扇動してお金を巻き上げるミニカルト商法がはびこっています。満たされない現状を変えたくて、新しいものに飛び込もうとする人たちを食い物にするのがカルトだと思います。
▽人ごとじゃない
「わたしの魔境」はオウムを知らない20〜30代のために作りました。多くの人が「自分とは関係のないサイコパス集団」と思っているかもしれません。でも、成功者とされる人物のオンラインサロンに参加して酔いしれているような人たちは、ミニカルトに入っているようなもの。間違ったものじゃなければいいけれど、傲慢(ごうまん)になったり、妙なプライドを持ったりしていたら、「魔境」に陥っていると言えます。
誰かの不幸の上に成り立つ幸せは、長くは続かない。オウムは家族と引き離されたり、財産をお布施として巻き上げられたり、信者の犠牲の上に成り立っていたから結局は転覆しました。
映画を通じて若者たちに伝えたいのは「今も昔も生きづらい世の中だよね」ということ。でも、遠くの教祖を探してさまようより、身近に自分を満たしてくれるものがあるかもしれない。カルトにはまる前に僕に一報をくれたら、お茶でも飲みましょうという気持ちです。