西村修と藤波辰爾「無我」を巡る問題の真相を元東スポ記者が明かす 西村だけが悪者になるのは「一方的な見方」

1

2025年03月19日 10:10  webスポルティーバ

  • 限定公開( 1 )

  • チェックする
  • つぶやく
  • 日記を書く

webスポルティーバ

写真

プロレス解説者 柴田惣一の「プロレスタイムリープ」(15)

追悼・西村修 後編

(前編:幻に終わったアントニオ猪木との「シルクロード決戦」プランも 西村修のプロレスラー人生を振り返る>>)

 1982年に東京スポーツ新聞社(東スポ)に入社後、40年以上にわたってプロレス取材を続けている柴田惣一氏のプロレス連載の第15回。がんのために2月28日に逝去した西村修さんのエピソード後編は、藤波辰爾の「無我」で起きた問題とその真相、広く深かった交友関係などを振り返った。

【スノーボードもプロ級】

――西村さんは、身体能力が高かったイメージがあります。

柴田:西村さんは運動神経が抜群で、さまざまなスポーツが得意でした。スキーも子どもの頃から大好きで、レスラーになってからも、同じスキー愛好家の和田京平レフェリーたちとよくスキーツアーに出かけていましたよ。

 スノーボードも、まだ世間に広まっていなかった頃にチャレンジして、あっという間に上達。若くて長身、イケメンだから目立ったようですよ。高校を卒業する時には、「スノーボードのプロにならないか」と声を掛けられたそうです。そのままスノーボードの道に進んでも、立派な選手になったんじゃないかな。

――日本でスノーボードがブームになったのは、1990年代の後半くらいでしたね。

柴田:西村さんは1971年生まれですから、スカウトされたのは1980年代の後半ということになりますね。ただ、プロレスが好きで新日本プロレス学校に通うくらいだから、最終的にはプロレスを選択した。小学校の卒業文集には「プロレスラーになって長州力を倒す」と書いたそうで、藤波辰爾さんのファンだったようです。

【藤波辰爾「無我」の商標登録を巡る問題の真相】

――1995年には、藤波さんに誘われて「無我」に参戦しましたね。

柴田:「無我」は藤波辰爾さんが提唱して設立したんですが、西村さんが商標登録をしています。これは、当時の新日本プロレスの幹部・倍賞鉄夫さんが、こっそり西村さんに「そのうち、『無我』という言葉も自由に使えなくなるかも」とささやいたから、だそうなんです。

 その頃は新日本の上層部で権利ビジネスの話が持ち上がっていて、肖像権、著作権、商標登録などをきちんとしないといけない、となりました。そこで、「無我」についても新日本でちゃんとしようとなったらしくて。となると、藤波さんが掲げた「無我」構想も自由にできないから、倍賞さんが気配りしてくれたようです。

――倍賞鉄夫さんは、アントニオ猪木さんの元妻・倍賞美津子さんの弟さんでしたね。

柴田:倍賞さんはわれわれにも優しい人でしたね。新日本のフロントの皆さんは、メディア関係者にも気を遣ってくれる人ばかりでしたが、倍賞さんはさりげなく心配りしてくれました。

 猪木さんがアントン・ハイセル(※)の株を顔見知りに勧めていた時も、後から倍賞さんが追いかけて「やめたほうがいいよ」と止めていましたよ。「アントントレーディングのほうが......」と言っていたのには苦笑しましたけどね。トレーディングは、タバスコなどの会社でした。

(※)猪木がブラジルで興したリサイクル事業。サトウキビの搾りかすを牛の飼料として活用することで、食糧不足、環境問題を解決する目的で設立した会社。

「無我」を商標登録しようという話も、倍賞さんのひと言がなければ手もつけなかったでしょうね。「西村さんが藤波さんから無我を奪った」と思っている人もいますけど、それは一方的な見方だと思います。

――「無我」に関しては、西村さんを非難する声も耳にします。

柴田 :どこでそういう話になったのかはわからないけど、先ほども言ったように西村さんが独断で商標登録したわけではないんです。藤波さんも承知の話だし、商標登録の件については非難してないじゃないですか。

 特許庁も時間をかけていろいろ調査するから、申請したって通らないこともある。どういう経緯で申請したか詳しくチェックするし、代表者の藤波さんではなく西村さんが申請した理由も、弁理士の指導のもとで上申してそれが認められています。

 だけど、西村さんが無我を奪ったという話がワーッと広がって一気に悪者になってしまった。僕は西村さんに「インタビューなどで、きちんと説明したほうがいいのでは?」と言ったんだけどしなかった。そこには理由があったんです。

――どういう理由ですか?

柴田:まだ知的財産という概念が薄かった時代で、西村さんは銀行に紹介されて弁理士事務所に依頼し、いろんな書類を書かなきゃいけなかった。役所関係の手続きに強い西村さんの友人も手伝っていたけど、"坊主憎けりゃ袈裟まで憎い"なのか、暴走したファンが、その友人に「西村を応援するな。殺してやる」と、ボイスチェンジャーで声色を変えて電話してきたそうなんです。

――脅迫じゃないですか!

柴田:おびえた友人が警察に相談したこともあって収まったたようだけど、今でも電話が鳴るとフラッシュバックするなど心に深い傷を負った。だから西村さんは口をつぐんだんです。友人を守るために、勝手に商標登録したと非難されても反論しなかったんですよ。

――そんな経緯があったんですね。

柴田:ただ、無我を退団する時に、団体の経営に携わっていた藤波さんのご家族を批判したのは、ちょっとやりすぎたかなと思いますね。本人は、そのご家族ではなく関係者を批判したつもりだったそうだけど、「それについては自分も若くて未熟だった」と反省してました。

 そうそう、藤波さんと西村さんの溝が深まっていた時に、あるパーティーにふたりがいたことがあって。僕は藤波さんに「西村さんが謝りたいといっています。連れてきていいですか」とお願いしたことがあるんですが、藤波さんは「彼だけは......」と意外な返答でした。いつもにこやかで「いいよ」と言う方なので、驚いたのを覚えています。

【誰にでも誠実に接した西村修の生涯】

――西村さんはルックスもスタイルも整っていたため、モデルをやったことがあるそうですね。

柴田:東京の目黒にあるファッション専門学校「ドレスメーカー学院」のモデルですね。準備のために採寸したら、身長が186cmで、股下が93cmもあったんですよ。

――身体の半分が脚なんですね。

柴田:あらためて「やっぱりカッコイイんだな」と認識しました。西村さんはほかにもいろんなことやっています。東京の日比谷公園の百周年記念事業では、ベンチを寄付しました。公園のシンボルである噴水の真ん前のベストポジションに「無我・西村修」のプレート付きのベンチが置かれています。あとは、伊藤園の「俳句大賞」で入賞したこともありますね。

――どんな句だったんですか?

柴田:あるファンが、「お父さんに肩車してもらわないまま、亡くなっちゃった」と漏らしたのを聞いて、西村さんはその場で肩車をしてあげた。そのファンは感激していたけど、その時の思いを詠んだ句が俳句大賞で入選したんですよ。

 その句は、「肩車 しても届かぬ 天の川」。それを見て思うというか......僕より若い西村さんが、先に天の川を渡ってしまったのは悲しいですね。

――西村さんが闘病生活に入った昨年4月、私は東京・大塚のお寿司屋さんで、偶然お会いしました。

柴田:そのお寿司屋さんは、僕も行ったことがありますね。大塚は地元とあって、西村さんの行きつけのお店がいくつもあるんです。決して高級店ではないけど、おいしいお店ばかりでした。がんを公表して間もない西村さんを取材したのも大塚でした。無理をしていたんだろうけど、思いのほか元気だった。今思えば、そこから入退院を繰り返す1年がスタートすることになるのですが。

――選手、関係者、地元の人たち......西村さんの交友範囲は広かったんですね。

柴田:西村さんは広くて、深い関係を築き上げていました。プロレスラーも、ベテランから若手選手まで、分け隔てなく付き合っていましたね。

――大塚のお寿司屋さんに、新日本の後輩の大岩陵平選手と食事しているのも、SNSで目にしました。

柴田:大岩のこともかわいがっていましたね。彼は学生時代から、大塚で開催していた "西村会" で何度か見かけたけど、本当は他のプロレス団体に入門しようと考えていたんです。でも、西村さんが「入門するなら業界ナンバーワンの団体にしたほうがいい」と、新日本に入門することを強く勧めたんですよ。のちに大岩本人も、「西村さんのアドバイスで新日本にしました」と話していました。

 いろんな選手の面倒を見ていたのは間違いないですね。プロレスラーだけじゃなくて一般の方やファンの方でも同じように接していた。だから、文京区議会の議員(2011年4月にから4期務める)も天職だったと思います。狭い道の整備など、地域の方々のお願いに真摯に耳を傾けていた。地元に根付いた活動に勤しんでいましたよ。

――思い出は尽きませんね。

柴田:そうですね。ちょっと駆け足になりますが、最後にもう少しだけ。

 東スポの若手記者が交通事故で急死した時は葬儀に来てくれたんだけど、遺影を見て、小さい声で「違います」とポツリ。違う記者と勘違いしていました。

 また、西村さんが最後の試合で着ていたガウンは、遺影の写真でも着ていて一緒に天国に旅立ちましたが、生地から染めた豪華なもので、絹糸で「無我」の字を刺繍したもの。全部で、東京−岡山間の長さにもなる絹を使って、1年以上をかけて丁寧に制作されました。エピソードは、挙げだしたらキリがないですね。

 53年で人生の幕を閉じたことは、本人にしても無念だと思う。ギャンブルはやらず、大好きなお酒をいっぱい飲んで、女性にモテた。僕の中には、がん検診を避けている西村さんを、無理やりにでも病院に引っ張って行くべきだったという思いがあって、それは一生消えないでしょうけど......。彼は短く、太く生きた。人生を謳歌して楽しんだ。そう考えて、西村さんの死を受け入れるようにしています。

(敬称略)

【プロフィール】

柴田惣一(しばた・そういち)

1958年、愛知県岡崎市出身。学習院大学法学部卒業後、1982年に東京スポーツ新聞社に入社。以降プロレス取材に携わり、第二運動部長、東スポWEB編集長などを歴任。2015年に退社後は、ウェブサイト『プロレスTIME』『プロレスTODAY』の編集長に就任。テレビ朝日『ワールドプロレスリング』で四半世紀を超えて解説を務める。ネクタイ評論家としても知られる。カツラ疑惑があり、自ら「大人のファンタジー」として話題を振りまいている。

    ランキングスポーツ

    前日のランキングへ

    ニュース設定