(画像:堀江貴文氏 Instagramより) 日清食品『完全メシ』のCMに堀江貴文氏が出演していることに批判が殺到。X上で「#日清食品不買運動」というハッシュタグがトレンド入りする事態になりました。
◆コロナ禍での餃子店閉店事件再び。成田悠輔氏もかつて
堀江氏の、自分と異なる意見には“バカ”とか“頭悪い”と乱暴な言動をいとわない姿勢や、「NHKから国民を守る党」の立花孝志党首と親しい間柄であることなどに疑問を抱く多くのネットユーザーが、日清食品に対して抗議の意を示しているのです。
また今回の一件で、コロナ禍でマスク着用の是非をめぐって騒動となり、結果閉鎖を余儀なくされた尾道市の餃子店での事件も再びクローズアップされています。そうした人物を食品の広告に起用する感性について問いただす声も多く、ただ堀江氏がイヤだからダメ、という問題では済まなくなっています。
もちろん、堀江氏を起用するにあたっては、こうした声があがること自体は予想できたはずです。しかしながら、ここまでの反応は想定外だったのではないでしょうか。昨年のキリン『氷結無糖』のウェブCMにおける、成田悠輔氏の降板騒動とよく似たケースだと言えます。
好感度勝負の王道ではなく、“悪名は無名に勝る”論法のキャスティングが裏目に出た格好です。なぜ『完全メシ』の堀江氏は、こんなにも拒否されてしまったのでしょうか?
◆『完全メシ』の合理性と固く手を結ぶ堀江氏
この騒動について論じたロマン優光氏のコラムに、ヒントがありました。
ロマン優光氏は、“これだけ食べておけば栄養についてめんどくさいことを考えなくてもいいという利便性と満足感を得られる味わいを独自のテクノロジーによって両立させた『完全メシ』のコンセプトが、堀江氏の話術に象徴的なライフハック的合理性と見事に合致したがゆえのCM起用だったのではないか”と論じています。(『堀江貴文と#日清食品不買運動』実話BUBKAオンライン4月4日掲載)
この見立てには膝を打ちました。たとえば、堀江氏の前に出演していた北野武氏の場合は、むしろそのように現代的かつスムーズな合理性に対して疑いを持つ世代の代表として、反語的に『完全メシ』の魅力を伝える役割を担っていました。
一方、堀江氏は、端からこの合理性と固く手を結んでいる存在です。そこには北野氏が醸していた批評性やユーモアではなく、この利便性やテクノロジーを理解しない者は頭が足りていない、とのメッセージが色濃くにじみ出ているのですね。なぜならば、堀江氏自身がそのような言動を繰り返してきているからです。
セリフは台本の通りなのでしょうが、フレージングは堀江氏のキャラクターを反映しています。『完全メシ』がそのキャラに全面的に乗っかる形で、堀江氏の“悪名”によって加速している。
つまり、“悪名”が意外性のあるテンションとして機能しているのではなく、違和感を生まないただの潤滑油となってしまっているわけですね。
◆炎上上等で打った今回のCMが機能しなかった理由
ロマン優光氏の言葉を借りれば、<食事に関する情緒性が排され>た『完全メシ』とは、食事という神聖な行為に対する悪辣さを自覚したソリューションなのだと言えます。
であるならば、その悪に対する疑義をワンクッション挟んだうえで、商品のバリューを伝えたほうが、効果的な説得力を生んだでしょう。
ですが、堀江貴文氏は、そうした悪辣さに無自覚であるがゆえに、強い言葉を繰り出せる人物です。つまり、堀江氏の無邪気な“悪”は、『完全メシ』の偽悪を塗りつぶしてしまっている。
これが、炎上上等で打った策が最初から機能しなかった理由です。
◆批判した人たちの「不快感」とは?
今回、堀江氏の起用を批判した人は、日頃の言動や政治的行動などを理由にあげていますが、いずれにも共通しているのは、不快である、ということです。では、その不快感とは何なのでしょうか?
それは、自らを理知的であり優秀であると信じて疑わずにいないがゆえに、感情を失った人間の姿を見るからなのではないかと思います。
その意味では、“完全”な堀江氏のキャスティングは正解だった、とも言えるのですが。
<文/石黒隆之>
【石黒隆之】
音楽批評の他、スポーツ、エンタメ、政治について執筆。『新潮』『ユリイカ』等に音楽評論を寄稿。『Number』等でスポーツ取材の経験もあり。いつかストリートピアノで「お富さん」(春日八郎)を弾きたい。Twitter: @TakayukiIshigu4