教養としての実践的キリスト教 海外フィクションで描かれるキリスト教を直接的に題材にした作品

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2025年04月14日 19:40  リアルサウンド

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(左から)、月本昭男 (監修)
■フィクションで描かれるキリスト教

  今回キリスト教について三回に分けて解説をしてきたが、これまで二回の概略ですでに1万文字を超えてしまった。一つの世界宗教を説明しようとすると、概略だけでもどうしてもこれだけの文字数は必要になってしまう。これでもかなり端折ったつもりなのだがご容赦いただきたい。三回目の最後となるが、キリスト教を直接的に題材にしたフィクション作品をテーマごとにいくつか紹介する。日本の作品やアニメ、漫画も含まれる。


■『教皇選挙』(2024年) コンクラーヴェ

  コンクラーヴェはカトリック教会のトップである教皇の席が空席になった時に新しい教皇を決めるために行う儀式である。ロバート・ハリスの小説を原作にした映画『教皇選挙』の原題は"Conclave"で儀式そのものが映画のタイトルになっている。コンクラーヴェとはイタリア語で「鍵をかけた」という意味で、教皇選挙の投票権を持つ枢機卿たちは外部との連絡を絶ってシスティーナ礼拝堂で秘密会議を行う。


  枢機卿たちは一日複数回の投票を3分の2以上の得票者が出るまで繰り返す。数日単位の長期間になる場合もあり、「コンクラーヴェは根競べ」だとのダジャレもある(もちろん日本限定で通じるダジャレ)。投票の結果は暖炉で投票用紙を燃やした時に出る煙の色で外部に伝えられる。再選挙の場合は黒い煙だが、教皇が決定した場合は薬品で白い煙が出るようになっている。これも映画『教皇選挙』ではっきり描写されていた。この煙の色で結果を伝える慣習はダン・ブラウンの小説を映画化した『天使と悪魔』(2009年)でも描写されていた。


 教皇の席が空席になる理由は殆どの場合教皇の死去だが、稀に教皇が存命のまま退位することがある。カトリックの長い歴史でも極めて稀なことであり、ベネディクト16世は2013年に存命のまま退位したが、生前退位したのはグレゴリウス12世以来598年ぶりだった。映画『2人のローマ教皇』(2019年)はジョナサン・プライス演じる現教皇フランシスコ(映画劇中の時間軸ではホルヘ・マリオ・ベルゴリオ枢機卿)とアンソニー・ホプキンズ演じるベネディクト16世の対話で構成されており新旧二人の教皇の姿勢の違いもうかがえる。20世紀後半以降のカトリック教会は劇的なまでにリベラルの方向に向かっており、現教皇のフランシスコもリベラル派だがベネディクト16世は保守派だった。カトリックも一枚岩ではなく、『教皇選挙』のように保守派の枢機卿も一般信徒も相当数いることだろう。『教皇選挙』の冒頭で死去した教皇は一言もセリフが無かったが、その後の間接的な描写からリベラル派だったことがうかがえる。おそらく現教皇を意識したのだろう。


■『ミッション』(1986年) イエズス会と宣教

  キリスト教は一般に広まるにつれて世俗化していったが、それに反発して世俗を離れた修行に励む「修道士」というスタイルも誕生した。修道士といえば人里離れた修道院で世俗から離れた禁欲的な生活をしながら修行に明け暮れるものが一般的なイメージだが、世俗にとどまり修行を行う修道士もいる。


  世俗から離れて瞑想や祈りに専念するのを「観想修道会」といい、民衆の中で托鉢しながら信徒に教えを説いたり、貧民や病人の救済を行う活動的なものを「托鉢修道会」という。フランシスコ修道会、ドメニコ修道会がこれらの例で、実はわが国にキリスト教を伝えたイエズス会もその一派である。イエズス会は宗教改革で各国の教会がカトリックから離脱する中、海外での宣教に身を投じた。映画『ミッション』は16世紀末から18世紀にかけて、南米各地に建設されたイエズス会伝道所の活動の歴史を基に制作されている。


  遠藤周作の小説を原作にした『沈黙 -サイレンス-』(2016年)の主な背景は江戸幕府による宗教弾圧だが、イエズス会の宣教も関連している。主人公のセバスチャン・ロドリゴはイエズス会の司祭である。劇中ロドリゴ自身も投獄されたりさんざんな目に合うが、そんな危険を賭してまで彼らが布教活動を行ったのは彼らなりの使命感があったためだ。それは後述する。


■『チ。-地球の運動について』 異端審問

  中世以降のカトリック教会には正統信仰に反する教えを持つ(異端である)という疑いを受けた者を裁判するために設けられたシステムがあった。それが異端審問である。「異端」に該当するものは色々あるのだが、聖書に基づく世界観に反する科学理論はその典型例だ。


  歴史上の有名な例だとやはり地動説を唱えたガリレオ・ガリレイだろう。地球が太陽の周りを周っているという地動説の理論は、聖書の世界観に反している。ガリレイは地動説に関する著作を発表したことで2度異端審問にかけられた。人気漫画『チ。-地球の運動について』は「C教」と名前を暈されているが、モデルは明らかにカトリックだろう。同作の主人公たちは歴史上の特定の誰かではなく、地動説を唱え研究してきた人々すべたがモデルといった感じである。


  そして歴史的事実として重要なことなのだが、実は現実世界での地動説はそこまで厳しく弾圧されなかった。前述のとおりガリレオは2度異端審問にかけられたが、2度目の裁判で終身禁固を言い渡されている。だが、パトロンだったメディチ家が奔走したことなど諸般の事情から自宅軟禁に減刑されている。制限は徐々に緩和され、自宅軟禁こそ解かれなかったが晩年のガリレオはほぼ自由に研究をできたとのことだ。


  時代が下るとカトリックは科学理論との融和を図るようになる。1936年に当時の教皇ピウス11世によって改組されたローマ教皇庁科学アカデミーはその象徴的な存在だろう。1960年から1966年までアカデミーの会長だったジョルジュ・ルメートルはビッグバン理論の先駆者の一人だが、ビッグバン理論は「神が七日間で世界を創った」という旧約聖書の世界観に反している。ルメートルは異端審問にかけられていないし、破門もされていない。カトリックの司祭でもあったルメートルは神学と物理学を両立させたまま生涯を終えた。彼は自身の姿勢について生前「真理に至る道は2つあります。私はその両方を歩むことにしたのです」と語っている。


  1983年、当時の教皇ヨハネ・パウロ二世は、ガリレオに対する宗教裁判が誤りだったことを公式に認め謝罪している。ラファウは生まれた時代が500年ほど早すぎたのだ。宇宙の姿に関する研究の歴史はサイモン・シン(著)青木薫(訳)『宇宙創成』(新潮社)がわかりやすく充実した内容なので紹介しておこう。ガリレオやルメートルの理論についても記述がある。


■『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』(1989年) 聖杯

  イエス・キリストや聖人(信徒の模範となるような行いをして殉教し、一定の条件を満たして列聖された人)の遺品、遺骸を「聖遺物」と言う。『Fate/stay night』をはじめとする一連の「Fate」シリーズでは英霊が生前に所縁のあった品を聖遺物と呼んでいたが本来はキリスト教の用語である。仏教でもお釈迦様の遺骨を「仏舎利」として神聖視している。似たような発想に基づくものだろう。聖遺物のなかでも最も有名で逸話も多いのは聖杯だろう。イエス・キリストが絶命したときにその血を受け止めたとされているもので、復活、再生、不死、豊穣の奇跡をおこすとされている。


  聖遺物でもとりわけ聖杯が有名なのは古代から中世にかけて成立したアーサー王伝説に組み込まれたのが理由だろう。アーサー王伝説に登場する王の臣下「円卓の騎士」には聖杯探索のエピソードがある。『Fate/stay night』には聖杯が登場するが、同作はアーサー王伝説から強く影響を受けている。伝説によると聖杯はキリストの弟子ヨセフに与えられ、ヨセフの子孫が代々守護していた。


  だが守護者が一瞬心を乱したために行方不明になってしまったとのことだ。アーサー王伝説では円卓の騎士の3人ガラハッド、パーシバル、ボールスが最終的に聖杯にたどりついたとされている。聖杯探索の伝説をモダンにアレンジしてエンタメに仕上げたのが『インディ・ジョーンズ/最後の聖戦』だ。同作には敵役としてナチス・ドイツが登場するがアドルフ・ヒトラーも聖杯を探していたという陰謀論がある。ほか、ダン・ブラウンの『ダ・ヴィンチ・コード』(2006年)も聖杯伝説を扱ったモダンなフィクションの有名な例だ。聖杯についていくつか書籍を読んだが、レッカ社(編)『中二病大辞典』の「聖杯」の項目が一番分かりやすく簡潔だった。それだけよくフィクションの題材に用いられるということだろう。


 他の代表的な聖遺物以下のものがある


・聖骸布(イエス・キリストが磔にされて死んだ後、その遺体を包んだとされる布)


・ロンギヌスの槍(十字架上のイエス・キリストの死を確認するため、わき腹を刺したとされる槍。聖槍とも呼ばれる)


・聖釘(キリストが磔にされた際に手足に打ちつけられた釘) 


■『エクソシスト』(1973年) 悪魔祓い

  キリスト教伝播以前、ヨーロッパは各地域ごとの土着宗教を信仰していた。ケルトのドルイド教などその有名な例で、アーサー王伝説にはドルイドの要素が垣間見える。初期西洋魔術はドルイドのような土着宗教(キリスト教側から見たら異教)の要素を多分に含んでいたため、ヨーロッパのキリスト教化によって一度衰退した。安土桃山時代に来日した宣教師たちが仏教の事を「悪魔の教え」と評した記録が残っている。異教徒からしたらずいぶん失礼な話だが、敬虔なキリスト教徒にとって異教は神の秩序に反する存在なのだ。宣教師が危険を賭してまで遠い異国に布教活動で赴いたのは悪魔の教えから人々の魂を救済することが神から与えられた「ミッション」であるとの使命感があったためである。


 キリスト教は異教に由来する多くの魔術を否定し、魔術を用いたものを「魔女」と非難して中世には悪名高い魔女狩りが行われたが、キリスト教が公認した魔術もある。ミサと悪魔祓い(エクソシズム)である。ミサはカトリックの重要儀式である。キリスト最後の晩餐を伝承した儀式で、聖書朗読と、聖体拝領(キリストの肉たるパンを聖職者から頂く儀式)が執り行われる。東方正教会でも似た儀式を行うが、「聖体礼儀」と呼ばれる別儀式である。プロテスタンはミサに相当する儀式は行わない。筆者はサン・ピエトロ大聖堂を訪問したとき、運よくミサの時間に遭遇したのだが実に荘厳だった。ファンタジーで悪者が使う魔術が黒魔術なら、ミサは白魔術だろうか。


  悪魔祓いも重要儀式であり、始祖であるイエス・キリストも悪魔祓いを行った描写が新約聖書にある。いわばキリスト教発祥時点から「公認」されていた魔術であり、体系化された時期も早い。3世紀には悪魔祓いを行う専門の職務、「祓魔師(ふつまし/エクソシスト)が設けられている。三世紀のローマ教皇コルネリウスが残した記録によると、すでに当時のローマ・カトリック教会には52人のエクソシストがいたそうだ。儀式などの形式にこだわるのはカトリックの特徴だが、悪魔祓いの儀式も決まった形式がある。


  初期キリスト教の時代には「イエスの名において出ていけ」と命じるだけだったが祈りの言葉や聖油を塗布する儀式が追加され、1614年にはローマ・カトリック教会が『ローマ典礼儀式書』を定めて、規定を設けている。そして多くの方には意外なことかもしれないが、悪魔祓いはフィクションの中だけの産物でも時代遅れの代物でもない。『ローマ典礼儀式書』は1999年に改訂されて、今も現役である。トレイシー・ウイルキンソン (著)、 矢口誠 (訳)『バチカン・エクソシスト』に悪魔祓いの歴史と21世紀における実情が描かれているので、興味がおありの方はご一読いただきたい。


  映画『エクソシスト』で、登場人物のデミアン・カラス神父(ジェイソン・ミラー)が「悪魔祓いをしてくれる人を見つけるにはどうすればいいか?」と尋ねられて「まずはその人をタイムマシンに押し込んで16世紀に戻すんですね」と答えているが、実のところ現在でも悪魔祓いはさして珍しい儀式でもないのだ。もともとカトリックの儀式はラテン語で行うしきたりだったが、1962年-1965年に開催された第2バチカン公会議で各国語で行って構わないと公認された。映画『エクソシスト』は英語で悪魔祓いの儀式を行っていたが、ラテン語以外の各国語でカトリックの儀式を行うのは教皇庁公認であり、劇中の悪魔祓いの作法も『ローマ典礼儀式書』のやり方にかなり忠実である。



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