
アメリカとロシアが停戦協議を進めているウクライナ戦争。エネルギー施設に対する攻撃停止に関して合意に至ったものの、4月6日にはロシアが対象地域からミサイル攻撃を行なうなど、困難を極めている。さらに、クルスク戦線の地上戦では"後の祭り"が開催されていた。
事の始まりは2月28日にホワイトハウスで行なわれた、トランプ米大統領とゼレンスキー・ウクライナ大統領の首脳会談。ふたりは「感謝」をめぐって大喧嘩し、決裂した。
3月3日、トランプ大統領はウクライナに対する軍事支援を停止させ、さらにその2日後には諜報活動における協力も取りやめると発表した。それまではアメリカ軍(以下、米軍)から提供された情報を用いてロシア軍(以下、露軍)の進撃を遅らせていたが、それができなくなったのだ。
そのため、3月7日の報道によると、露軍がクルスク州スジャ近郊でウクライナ軍(以下、ウ軍)の防衛線を突破。9日には露軍の特殊部隊100名が直径1.4mの天然ガスパイプラインを使ってウ軍の背後に現れ、奇襲。露軍がウ軍1万人を包囲したと報道された。
露軍にとってクルスクでの戦闘は、戦争ではなく「対テロ作戦」。ウ軍兵士たちはテロリストとして皆殺しとなる。そのため3月13日にトランプがプーチンにウ軍の助命を嘆願。翌日、プーチンは安全保障会議で「助ける」と発言した。
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ただし、この露軍によるウ軍包囲に関して、米CIAは虚偽であることをトランプに報告していた。しかし、トランプはCIAの報告を信じずに「ウ軍はクルスクで包囲されている」と再度主張。つまり、この米露の代理戦争では、プーチンがトランプというカードをすでに握っている状態なのだ。
しかし、そんな最中、最前線のウ軍は果敢にも"後の祭り"を開始した。
3月11日、米軍のウ軍への情報提供が再開。露軍の動きが手に取るように把握できるようになったウ軍は、一気に後方へ撤退。露軍の進撃路はわかっているので、露軍の来ない場所に踏み留まり、155mm榴弾砲で叩くことで少し押し戻した。
しかし、プーチン露大統領は打つ手が早い。3月19日の報道では、クルスク戦線でウ軍排除作戦が完了間近と報告されている。
もし、米軍からの情報遮断が無ければ、露軍のパイプライン奇襲は防げたはずだ。ゼレンスキーは本当の最前線であるホワイトハウスでドジをやらかしたとも言える。しかし、現場のクルスクで、ウ軍は見事な撤退戦をやってのけたのだ。
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元陸上自衛隊中央即応集団司令部幕僚長の二見龍氏(元陸将補)はこう話す。
「ウクライナ軍のクルスク戦の撤退作戦は見事ですが、"後の祭り"はもっと早くから開始されていました」
なんとそれは、トランプとゼレンスキーの口喧嘩より以前から始まっていたというのだ。
「なぜウ軍はクルスクに侵攻したのか。最初にそこから説明しましょう。
クルスクへのウ軍の侵攻は、軍事用語で『牽制抑留』といいます。これは、軍団主力を側方で援護する場合の役割のひとつで、敵を引きつけて拘束することです。つまり、東部戦線から露軍の戦力をクルスクに引き付けて、そこに釘づけにするのが目的でした」(二見氏)
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2024年8月から開始されたクルスク作戦は、ロシア本土を占領し、ここに露軍の兵力を大量に投入させることで東部戦線のウ軍の劣勢を回復することにあった。そのためには、東部地域から精鋭部隊を引き抜いてでも、隙あらばクルスク原発に侵攻するという脅威を与え続けなければならなかったのだ。
そして、その作戦を思惑通り進行させ、兵力3万のウ軍は、露軍6万名、北朝鮮軍1万5000を引き付けることになった。つまり、8万もの"兵力吸引"を行ない、徐々に後退しながら敵軍を消耗させたのだ。
「しかし、そのクルスク作戦をいつまで、どこまでやればいいのか見えていませんでした。それを判断するために、まずトランプ大統領が大統領選挙に勝つかどうか、ウ軍は見極めようとしました。そうして当時のトランプ候補が有利に展開し始めた去年9月の時点から、ウクライナ軍は"後の祭り"の準備を始めたと私は推定しています。
なぜなら、トランプ大統領が選挙中から『私ならウクライナ戦争を24時間で終わらせる』と言い放ったものの、1月20日の就任まで和平交渉がどのように進むか見えなかったからです。就任後、クルスク戦線での当時の動きが良く見えてきました」(二見氏)
クルスクは露軍が取り返したわけではなく、「24年9月から始まったウ軍の計画だった」と二見氏はいうが、その動きはどう見えていたのだろうか? 二見氏はこう推測する。
「まず、ウ軍は自らの損耗状況を確認し、人的戦力損失の回避を行なわなければなりません。そのため、大部隊3万名の移動、戦線の収縮、新たな戦線の構築のため、少なくとも1ヵ月程度の作戦準備期間が必要でした」(二見氏)
どのようにウ軍の大軍を動かしたのか?
「まず行なうべきは、スジャ撤退後の防御線の構築と確保要領の準備です。この準備は期間が長ければ長いほど良いのですが、防御部隊が耐えうるかという問題があり、ぎりぎりの選択をする必要がありました。
次に戦力を引き抜き、転用していることを秘匿する必要もあります。そのため、接触線でのウ軍の積極的な戦闘を演出しなければなりません。しかし、前線にいる部隊は厳しい戦いを強いられるので、長くは実施できません」(二見氏)
どのタイミングで、これらを実行すると決めたのだろうか。
「トランプの立ち位置と要求がわかり次第、クルスクの戦いを縮小し、次の戦いへ移行することを決定したと思われます。そして、1月20日の大統領就任後、トランプの言動が確実にプーチン寄りだと把握できたため、ウ軍はクルスクで動き始めたと推定します。
露軍の奇襲は3月9日に行なわれたわけですが、2ヵ月近くあれば移動と補給・整備などの戦力回復は十分な期間だったはずです」(二見氏)
その当時のクルスク最前線はすさまじい。ウ軍は精鋭部隊でも露軍の前進を止め切れず、苦しい戦いに陥っていた。
損害を顧みず、人的戦力の多さで押してくる露軍は、滑空誘導爆弾でウ軍陣地を破壊。さらに、ウ軍の電子妨害が効かない有線式ドローンを最前線に投入したため、被害が甚大となっていた。
「その戦況の中で、ウ軍はクルスク撤退作戦を開始。そして、クルスク戦線の防御の要であるスジャ要塞から後退後、ウクライナ国境までの間に防御陣地の構築、段階的な部隊の転用の開始を少しずつ始めました」(二見氏)
まさに「兵は詭道(きどう)なり」。ウ軍は敵を欺(あざむ)く孫子の兵法を21世紀に実行しようとしたのだ。ウ軍は2022年9月に南部奪還をすると見せかけて、東部を奇襲して奪還に成功した実績がある。
クルスク最前線に話を戻す。
「クルスクに計3万の兵力を展開していたウ軍は、まずクルスク戦線の正面を縮小し、スジャから国境線の間に二個旅団規模の6000名を残し、残りは東部地域へ部隊を移動させます。そして、クルスク撤退を隠す陽動作戦として、ベルゴロドへの第二戦線を開く決定をしたと考えられます」(二見氏)
"後の祭り"の実働開始だ。
「大部隊の移動には周到な準備が必要です。なおかつ部隊のレベルが低ければ、露軍に早期に探知されます。そうなればウ軍の防御の薄くなった最前線を簡単に突破されて、ウ軍前線部隊は包囲殲滅(せんめつ)される可能性がありました」(二見氏)
結果的にはそのような事態に陥ることなく、ウ軍は自国国境線近くまで撤退できた。一方でクルスク戦線のウ軍最前線部隊は、厳しい戦いを継続。さらに3月9日には露軍の奇襲で背後を取られた。
「3月7日にウ軍の防衛線が突破されたということで、スジャが東西に分断されるのはわかっていました。スジャを放棄する判断は、その分断前でなければなりません。ウ軍の退路が確保できた段階で判断したのだと思います」(二見氏)
そして同日、露軍がウ軍1万人を包囲したとの報道が出た。
「スジャにいるウ軍は、空(から)に近い状態でした」(二見氏)
スジャ要塞を囲んだ露軍は、すでに存在しないウ軍1万人を「包囲した」と報告したのだ。この報道が二見氏の推論の裏付けとなるひとつの事実だ。
一方、3月13日にトランプはプーチンに包囲されたウ軍兵士の助命を嘆願。3月14日には、プーチンがそれを安全保障会議で助けると発言した。
まさにクルスク戦線から撤退に成功したウ軍兵士たちから見れば、"後の祭り"である。
「まとめると、3月9日に露軍はパイプラインを使ってウ軍後方に奇襲。しかし、ウ軍を分断しようとした時には、ウ軍は前線以外に部隊はほとんどおらず、空っぽの状態。ウ軍最前線部隊は後退経路が遮断される前に後退していたと考えられます」(二見氏)
この全ての動きについて、二見氏はどの段階で疑問を抱いたのだろう?
「3月13日の戦況図です。露軍が占領した東部がボコッと抜けていたんですよ。つまり、露軍は無人の野となったクルスク東部を駆け抜けていたということ。ここで疑問を抱き、分析を開始しました。
すると、ウ軍はクルスクから引き抜いた精鋭部隊を東部戦線の各方面に投入し、ドネツクを押さえていました。どうして露軍が急にやられ始めたんだ?というのも推論を考えるうえでの補強材料となりました。そして、この推論に達したのです」(二見氏)
"後の祭り"を進めていたのは、奇襲を成功させて「勝った勝った」と空騒ぎしている露軍だったのだ。
「ウ軍のほうが作戦は巧いです。露軍はただ"押せ押せ"なだけ。ウ軍は兵力を節約して露軍を潰す遅滞行動という比較的難しい作戦ができるレベルにあります。
さらにその間に兵を休養させて、次の戦線でまた押し始めたり、さらにベルゴロドを取りに行く第二戦線を開くことまでできる相当強い部隊です。今、ウクライナ軍は、世界で一番強い歩兵部隊だと思います」(二見氏)
取材・文/小峯隆生