がん闘病中の石橋貴明氏に「追い討ち」したフジ第三者委とメディアの人権感覚と道徳心

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2025年04月17日 19:01  サイゾーオンライン

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石橋貴明(写真:サイゾー)

 4月16日、とんねるずの石橋貴明氏が、がん闘病の最中、フジテレビの第三者委員会の報告書に書かれた「類似事案」について、自身が同委員会から調査を求められたことを認め、「10年余り前のことで記憶が曖昧な部分もありますが、記事にあった方々と会食した覚えはあります」「同席された女性の方には、不快な思いをさせてしまったことを、大変申し訳なく思っております」などと謝罪した。

記者たちの暴力性

 これに対して、ネット民を中心に、石橋氏を批判する声が目立つが、そもそも私は10年以上前の飲み会での出来事を持ち出して問題視してみせたフジテレビの第三者委員会の対応に首を傾げずにはいられない。

 石橋氏によれば、がんが発覚したのは今年2月。第三者委員の調査が行われている真っ只中だ。所属事務所は調査依頼に対して、「病気療養の準備のため対応できなかった」とし、石橋氏も「病気の発覚と重なり、数々の検査と入院準備のため時間に追われ、又、心の余裕の無さから、対応することが出来ず、申し訳ありませんでした」とコメントをした。

 そのような事情でヒアリングに対応できなかった石橋氏の見解を聞くことなく、拙速に調査報告書に類似事案を掲載する必要があったのだろうか。たとえ匿名で記載しても、すぐに個人名が特定されることは容易に想像がつく。事実、「週刊文春」の報道で石橋氏の名前は明らかになり、病床の石橋氏は激しいバッシングにさらされることになった。

 人権重視であるべき第三者委員会が、病気で苦しんでいる人に、よくもまあここぞとばかりに追い討ちをかけることができたものである。第三者委員会が指摘する通り、女性社員たちを苦しめた「あしき慣習」「企業風土」などあったとしたら、10年以上も前の類似事案などは氷山の一角に過ぎないはずだ。まるでスケープゴートのようにこの事案を持ち出して、本当に組織がクリーンになると思ったのだろうか。

 そもそも、加害者とされる当事者の話を聞くこともなく、断罪されるべき事案と判断したというのであれば、司法に委ねるべきではないか。現実的には受理されることはないだろうが、それなのに病床の石橋氏は社会的制裁を加えられることになるのだ。

 第三者委員会の報告は、3月末までに完了しないといけないという決まりはない。長期的に調査を続け、明らかにする必要がある情報がまとまれば、追加で報告すればいいだけだ。石橋氏へのヒアリングも体調が回復してからでもよかったのではないか。ヒアリング内容を踏まえて、報告の要否や、その内容を検討しても遅くはなかったはずだ。そう考えるのが、客観性が担保し、人権への配慮が求められる調査チームの原理原則であるべきだし、それ以前に人間の良心とはそういうものだろう。それなのに「石橋もお前もか!」と平気で悪態をつける人たちは、どのような道徳心を持っているのだろうか。

 そうした異常な空気に違和感を唱えることのできないのが、今の社会ではないか。なんの釈明もできない亡くなった人間を極悪人かのように叩き、その勢いのままジャニーズを解散させ、記者会見では、加害者当事者とされる人間がこの世にいない中で、残された関係者がまるで罪人かのように吊るし上げられる。その状況に違和感を覚えた人はどれほどいただろうか。もちろん被害者救済はなにより大事だ。だが、それとは別に、加害側とされる人たちへの、法治国家であるべき冷静で客観的な対応も欠かせないはずだ。彼らを裁くのは、メディアでもネット民でもない。

 10時間にわたるフジテレビ幹部の記者会見も同様だ。普段、パワハラや人権を声高に叫ぶメディアの人間や記者たちが、記者会見で質問するときは、ここぞとばかりに、声を荒げて威圧的な態度で糾弾する。望月某の態度なんて、放送事故レベルではないか。責めるべき相手には、何を言っても、どのような言葉を浴びせても良いなんていう道理はない。

 相手が誰であろうとも、冷静に問い質し、議論するべきである。ましてや対象が病人であったら、より慎重に対応すべきである。繰り返すが、拙速に調査報告を進めて、中途半端な状況で公表し、いわば「欠席裁判」が行われたことは、10年前の事案の是非を検討する以前に論じられるべき人権問題ではないか。

正義感と公益性が生み出す「あるべき報道」

 正義を語ることは、誰にだってできる。文句をつけることで、正義になった気になっている人間も多い。私はジャニーズを、ダウンタウンを、とんねるずを、テレビで見て育ってきた。40〜50代の我々の世代は大抵がそうだ。彼らから多くの影響を受け、たくさんの思い出をつくってもらった。それはとても尊いものだが、それを踏みにじれるだけのことを彼らは本当にやったのか。その事実関係は誰が認定したのか。刑事事件化されていない段階で、まるで犯罪者のようにメディアで叩かれ、ネットで罵倒され、社会的に抹殺される必然性があるのとは思えないのだ。

 ネット民が好きな言葉でいえば、それを「私刑」という。人の不幸は蜜の味なのだろうが、それを味わうことで満たされるのは、蜜を吸っている本人だけだ。それが人間の本性だとは思いたくないが、そんな歪んだ状況が避けられないなら、せめてマスメディアは公正中立な立場で取材し、分析し、報道に臨む必要がある。片側の意見にだけ囚われて、真実を追求することを諦めたり、真実を歪めてはならない。

 誰しもが知っている大手週刊誌で働く友人は、スクープを打つとき、酒の量が増えて、眠れなくなると話していた。それが報じる側の責任というものだ。これだけ取材しても、もしも間違いがあったらと思うと、震えるほど自分を追い詰めてしまうのだろう。それでも、伝えなければならないという公益性があるからこそ、過酷な使命が果たせるのだ

 対して、話題になればよいなんて風潮は、無責任以外の何者でもない。一罰百戒とばかり目立つ有名人を次々に社会的に葬り去り、それをもってして「公益性のある報道」というのはメディア側の詭弁である。芸能人だって記者だって一市民だって、社会的には平等でなければならないのは当たり前のことだ。コンプライアンスを持ち出し、他人の叩く前に、自身や自身の組織を戒める姿勢は、メディアや市民にも求められる。自分のことは棚に上げられるという風土こそ、問題ではないのか。

 私は、ダウンタウンも、とんねるずも、フジテレビもまだまだ観ていたい。自分よりも上の世代の人たちがつくり、演じるコンテンツを見て、元気づけられることがたくさんある。「あしき慣習」を変えていることは大事だが、コンプラ重視で清廉潔白な空気が拡大し、マジョリティから大鉈を振るわれれば、誹謗中傷が飛び交うSNSだって消滅させられてしまうかもしれない。そうなったら、ネット民が文句を言う場所すらなくなるという皮肉な状況になるのだ。影響力があるものを叩き、消し去るではなく、どうすれば、それを守り、発展させることを考える社会にしたいではないか。

 私は週刊誌でもネット媒体でも仕事をしているので、「マスゴミ」などと軽んじられるようなことを言われれば、当然だが気分は良くない。だからこそ、ペンを握る者は強い矜持を持たなければならないと考えているし、個人的には、誰かを刺すスクープを報じる仕事はしない。

 それは、物作りをし、この仕事を誇りに思っているからだ。物書きで儲かるなんてことはまずない。文芸がなくなっても、困る人はいないのかもしれない。だが、それをわかっていて仕事しているのだ。私には私にしか書けない作品があって、安易に人の真似はしない。いつでも叩かれている側から逆クロスを放つという矜持で、寝る間も惜しんで物語を生み出したいと思っている。

 有名人に限らず、ジャーナリズムがペンの力で人を刺すなら、刺すだけの理由がなくてはならない。それが公益性というものだ。だが、週刊誌がこれだけ破壊力を持っていながら、軒並み売り上げを落としているというのは、根本的に向かう方向が間違っているからではないのか。多くのスキャンダルが、公益とは無縁に、ただの娯楽として消費されているのが現状ではないか。

 法的に裁くことのできない、スクープという名の有名人の下半身ネタは、もう懲り懲りだ。

(文=沖田臥竜/作家・小説家・クリエイター)

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