3月27日発売の本書『作家の黒歴史 デビュー前の日記たち』(講談社)は、作家・宮内悠介がデビュー前にインターネット上で書きため、非公開もしくは削除していた文章をバックアップから発掘。本人曰く〈本当に見せたくない隠しておきたいやつ〉を厳選して公開し、自己批評を加えるという文芸誌「群像」での連載をまとめた、どうかしているとしか言いようのないエッセイ集である。
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主に振り返られるのは、2000年代後半。プログラマとして会社勤めをしていた著者が、20代後半から30歳までの間に書いた日記だ。媒体となるブログもmixiも、当時は長い文章が当たり前。その分文章の自由度は高く、身辺雑記や詩、夢日記など形式も内容もさまざまで、黒歴史としての暗さの度合いもまた一様ではない。
たとえば2009年初めの3つの日記で、ガザ紛争に対する海外の反応とネオナチの反応と「おれ」の反応を紹介するなど、〈とかく、息をするように政治の話をしていた〉過去。それは本人にとって青臭さもあるが故に、黒歴史に映っているのかもしれない。だが外野からすると、ガザの状況に対するさまざまな意見や、最新短篇集『暗号の子』(文藝春秋)でも見られる、思想の異なる側からも物事を考える姿勢に対しての興味深さが勝り、黒歴史感は薄い。
明らかに黒歴史といえる「痛さ」があるのは、将来を約束しあっていたパートナーと別れた時期の文章だ。2006年10〜11月の間に起きた出来事を記した日記「赤くなってみた」では、バーで知人と飲んだ時も、髪を赤く染めた時も、その場にはいない別れた彼女についてわざわざ言及する。さらには、〈人間は一人が一番強い。そんなこと、最初からわかっている。その上で、わざわざ他者とつきあうんだ。ならばそれはまったく理解不能な、自意識の鏡を打ち砕く、圧倒的な女性原理でこそあってほしいじゃないか〉と、他者と付き合うことについて「人間」と主語を大きくしつつ、とりあえず女性に依存しようとしているらしい、難解な論理を展開し出す始末である。
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不用意な一言がネット空間ですぐ炎上する今、こうした大きい主語や極論などは、黒歴史の要素として特に目がつきやすい。脳内の仮想敵に向けて書かれたという、2009年4月の日記「規制云々についての本音」。そこでは、殺人事件が起きた時にまっさきに表現の規制を心配するような人々へ、〈「事件に対して、あなたが思ったのはそれだけなのか?」とも思う〉と先制パンチをお見舞いし、そこから強気な物言いが連打されていく。現在の価値観で読んだ著者は、〈大きいことを言いたいという見栄〉から来る危なっかしくてややこしい文章に、別人が書いているような感覚さえ抱く。
だが本書はそこで、他人の振りをして終わりとはならない。〈しかしせめて、自分だけでも自分の味方でなければならないだろう〉というスタンスで、わかりにくい箇所を「現代語訳」しつつ、真意を分析していく。その中で浮かび上がる、過去に書いた文章が持つ、妙な勢いや謎の説得力。それは、著者が書き手として成熟していく過程で失ったものでもあるが、失ったものを羨むようなことはしない。また過去の強い言葉や主張を、自分の価値観がアップデートされていると、アピールするためのダシにすることもない。訂正すべき点は訂正しつつも、考えの変わってない点は正直に変わっていないと表明する。
〈そもそもアップデートという言葉からは、みずから深く考えるプロセスを経ずして、次々と新たな考えをインストールするニュアンスが感じ取れる。その先にあるのは、無だ〉。こう語る著者は、ノスタルジーやアップデートの対象とする以外にも、過去との向き合い方はあると考えているのではないか? そして黒歴史をあーだこーだ批評することに、新しさを無理に追わない豊かさや、過去とは違う文章の面白味が生まれる可能性を見いだしているのではないか?
という具合に、他人の黒歴史で恥ずかしくなったり、仮説を立てたり妄想を膨らませたりしている内に、「自分の黒歴史と向き合ったらどうなるのだろう?」とこちらにも思わせるところが、本書の魅力であり恐ろしいところである。とはいえ安易に真似するのは危険そう、まずはチラ見ぐらいから始めるのがよさそうだ。
(藤井勉)
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