NBA伝説の名選手:ジョン・スタークス ドラフト外から成り上がり「ハート&ソウル」としてニューヨーカーに愛されたタフガイ

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2025年04月29日 07:10  webスポルティーバ

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NBAレジェンズ連載48:ジョン・スタークス

プロバスケットボール最高峰のNBA史に名を刻んだ偉大な選手たち。その輝きは、時を超えても色褪せることはない。世界中の人々の記憶に残るケイジャーたちの軌跡を振り返る。

第48回は、1990年代ニューヨーク・ニックスの「Heart & Soul」として、王朝シカゴ・ブルズに挑み続けたジョン・スタークスを紹介する。

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【波乱の10代を経てドラフト外でNBAに】

 気骨があり、感情豊かで、恐れを知らない闘志----それらすべてを持っていたジョン・スタークスはニューヨーク・ニックスのファンに愛されていた。時には愚か者と思いたくなるような行為をすることもあったが、プレーでファンを魅了することのほうが圧倒的に多かった。

 スタークスがバスケットボール選手として成長できたのは、モンティという愛称を持つ兄のヴィンセントとの1対1で、心身両面でタフになれたことが大きい。ソフトなプレーをいっさい許さないモンティに挑み続けたことは、NBAでマイケル・ジョーダンやレジー・ミラーと壮絶な戦いを繰り広げられるようになる礎になったとも言える。

 オクラホマ州タルサで生まれ育ったスタークスは、高校時代にバスケットボールをプレーしたのは1年のみ。新しく来たコーチのやり方に納得できずにチームを辞めた。それでも、バスケットボールへの愛情は失っておらず、高校卒業後にロジャーステイト・カレッジに進学。普段の試合では観客席から観戦する状況にいたものの、タクシースクワッド(Taxi Squad)と呼ばれる故障者や出場停止になった選手の代わりの練習生としてチームに参加した。その後、ノーザンオクラホマ・カレッジに転校してプレーする機会を得たのだが、マリファナや窃盗といった悪事を働いて1週間刑務所に入り、退学させられてしまう。

 その後、スーパーマーケットで働きながらジュニアカレッジで学んでいたスタークスだが、20歳の時にダラスで行なわれた『ピッグス・ポップオフ』というトーナメントでプレーする機会を得ると、モーゼス・マローンといった現役NBA選手が参加するなかで活躍。スタークスと同じタルサ出身で、のちにNBA選手となるウェイマン・ティスデイルとともにトーナメントのオールスターに選ばれた。当時サウスイースト・オクラホマ・ステイト大の4年生だったデニス・ロッドマンがいるチーム相手に、27点を奪ったことで、その名を知られるようになった。

 その活躍はオクラホマ・ステイト大のレナード・ハミルトンコーチ(今季を最後にフロリダ・ステイト大のコーチから引退)の目にも留まり、NCAAディビションIでプレーできる資格は1年しか残っていなかったが、スカラシップ選手(奨学生)としてプレーする機会を得た。そして、1987−88シーズンには平均15.4点、4.7リバウンド、4.6アシストを記録した。
 
 だが、NBAドラフトでは指名外。ルーキーのフリーエージェントとしてゴールデンステイト・ウォリアーズと契約したものの、36試合しか出場できず、1シーズンで放出された。

【トライアウトのケガがニックスでの運命を変える】

 1989−90シーズンはNBAでの所属先が見つからず、コンチネンタル・バスケットボール・アソシエーション(CBA)やワールド・バスケットボール・リーグ(WBL)といったマイナーリーグでプレー。シーズン後にニックスのトライアウトに参加した。

 そこでスタークスは、ダンクを叩き込もうとした際にオールスターセンターのパトリック・ユーイングに叩き落とされ、膝を痛めてしまう。ただ、NBAの規定によって、ニックスは負傷したスタークスが12月までに回復しない限り、ニックスは彼をカットできなかった。

 このケガが、スタークスの人生を変えることとなる。

 そうして、1990年12月7日のシカゴ・ブルズ戦でNBAの戦列に復帰したスタークスは、8日のアトランタ・ホークス戦と11日のマイアミ・ヒート戦で2試合連続の20得点を記録するなど、周囲にインパクトを与えた。結局、同シーズンには61試合に出場。平均19分の出場時間で平均7.6得点という数字を残した。

 さらにパット・ライリーがニックスのヘッドコーチ(HC)に就任した翌シーズンは、得点力とディフェンス力を兼備したガードとして信頼を勝ち取り、82試合ベンチスタートながら平均13.9点を記録した。

「ハッスル自体が才能だといつも感じていた。それは単に効果のために思い起こされ、行なわれたものではない。それは彼の本性の一部なんだ」とライリーに評価されたスタークスは、1992−93シーズン中盤からは先発に定着。平均得点も17.5点まで伸ばし、オールディフェンシブ・セカンドチームにも選ばれる活躍を見せた。

 1993年以降、スタークスはいい意味でも悪い意味でもプレーオフで注目を集めた。この年のブルズとのカンファレンス決勝第2戦終盤、ドライブからホーレス・グラントとジョーダンの上から左手で豪快なダンクを叩き込んだシーンは、NBAのハイライト映像にしばしば出てくる。また、ジョーダンとのマッチアップであっても怯むことなく強気なプレーをし続けたことでも、ニックスファンのハートを掴み、愛される選手になっていた。

 一方で、その感情が時にいきすぎる時もあった。同じ年のプレーオフ、インディアナ・ペイサーズとの1回戦第3戦の第3クォーターでは、マッチアップしていたレジー・ミラーとのやりあいのなか、フラストレーションからミラーへ頭突き。血気盛んなスタークスはミラーが得意とする心理戦に負けて、一発退場となった。

 その直後、事の重要性を理解していなかったスタークスに対し、ユーイングは激怒。チームの大黒柱からの指摘に対し、「(自分がしたことは)悪い行動であり、私はチームメイトの非難を受け入れた」と、スタークスは試合後に反省の弁を口にした。

【1994年の明暗とキャリア終盤の成功】

 1993-94シーズンは、スタークスにとってキャリアにおける明暗が同時に訪れた時期でもあった。個人としては初のオールスター選出を果たし、チームではプレーオフで宿敵だったブルズ、ペイサーズを倒してのNBAファイナル進出に貢献した。

 しかし、迎えたヒューストン・ロケッツとの頂上決戦では7試合中5試合で19点以上を記録したが、最終第7戦では18本中2本しかショットを決められず、そのうち3Pは11本すべてミスというパフォーマンスが響き、ニックスは84対90で敗戦。スタークスがNBAファイナルの舞台に立ったのはこの1994年が最初で最後であり、ロケッツとの第7戦は現役を引退したあとも、深い後悔としてスタークスの心のなかに残っているという。

「それを受け入れるのが最も辛い夜だった。今もまだ時々、それについて考えることがある。なぜなら、多くの人が私を頼りにしていたからだ。チームメイト、特にファンベースにおいてだ。彼らは長年にわたってチームとして私たちをとてもサポートしてくれたので、私は彼らのために優勝することを強く望んでいた」

 1994-95シーズンのスタークスは、NBA最多となる217本の3Pショットを成功させたが、プレーオフではミラー擁するペイサーズにカンファレンス準決勝で敗戦。マジソン・スクエア・ガーデンでの第7戦を落としたのを最後に、スタークスを評価していたライリーHCがニックスを去った。

 その後、同じポジションのアラン・ヒューストンが加入したことでスタークスは先発からシックススマン(控えとして出場する立場の選手)へと役割を変えていくことになるが、スタークスは見事にその責任を果たし、1996-97シーズンには平均13.8点を記録。リーグのシックスマン賞を獲得した。

 ニックスの「ハート&ソウル(heart & soul)」として奮闘し続けたスタークスだが、1995年以降のプレーオフではカンファレンス準決勝の壁に阻まれ続けた。1998年のオフにニックスからウォリアーズにトレードされ、ブルズとユタ・ジャズに在籍したあとの2002年に現役引退を決断。NBAチャンピオンになれなかったが、スタークスはドラフト指名外選手から這い上がり、1990年代のニックスを象徴する選手だった。13シーズンにわたるNBAキャリアは、まさにアメリカン・ドリームの体現と言えるだろう。

【Profile】ジョン・スタークス(John Starks)/1965年8月10日生まれ、アメリカ・オクラホマ州出身。1988年ドラフト外。
●NBA所属歴:ゴールデンステイト・ウォリアーズ(1988-89)―ニューヨーク・ニックス(1990-91〜1997-98)―ゴールデンステイト・ウォリアーズ(1998-99〜1999-2000途)―シカゴ・ブルズ(1999-2000)―ユタ・ジャズ(2000-01〜2001-02)
●NBAファイナル出場1回(1993〜94)/シックスマン賞1回(1996-97)

*所属歴以外のシーズン表記は後年(1979-80=1980)

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