
「おぎやはぎさんが落ち着くのは、最下位取ってるからっていうのが、やっぱり僕は……」
1日深夜、『おぎやはぎのメガネびいき』(TBSラジオ)にゲスト出演したマヂカルラブリーの野田クリスタルは、穏やかに切り出した。
この日、黒糖のお菓子にハマっているという共通点から同ラジオに呼ばれた野田。パーソナリティのおぎやはぎは「赤坂黒糖協会」なる組織を立ち上げるほどの黒糖フリークであり、矢作兼が同協会の会長、小木博明が副会長を務めている。この日まで同協会の会員はおぎやはぎの2人だけだったが、この日、野田も「野田教授」としてメンバーに加わることになった。
番組の大半を黒糖トークに費やし、矢作いわく「笑えるところはひとつもない」というこの日の『メガネびいき』だったが、「お笑いの話はしたくない」という野田とおぎやはぎの共通認識を確認した流れから、くしくもおぎやはぎ、マヂカルラブリーが共に最下位に沈んだ経験を持つ『M-1グランプリ』(テレビ朝日系)の話題に入っていった。
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マヂカルラブリーは初のファイナル進出となった2017年、準決勝で大ウケした「野田ミュージカル」というネタが本番で大いにスベり、審査員全員が80点台を付ける607点という最低点を記録。特に83点を付けた上沼恵美子から「本気でやってるちゅーねん、こっちも!」と罵声を浴びせられ、我を失った野田が上裸になるなど『M-1』史上に残る名場面を披露することになった。
『M-1』での最下位はえてして8位や9位より「オイシイ」と言われるが、野田の場合はそうでもなかったようだ。
「『(快傑)えみちゃんねる』とかも呼ばれなかったです。ホントに嫌いなんだなと思って。本音ってあるんだ、テレビで。信用度上がりましたもん」
その後、20年大会で見事優勝を手にしてメディア進出を果たしたマヂカルラブリーだったが、おぎやはぎもまた『M-1』で“伝説的な最下位”を記録したコンビだった。
矢作が振り返る。
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「ただの最下位じゃないんだぞ、断トツだぞ。ありえないんだよ、ルールを変えたんだから」
「あんなかわいそうな思いをした人って、嫌いになれないよな。ホントに泣きそうになるよね」
2001年、第1回の『M-1グランプリ』でのことである。世に言う「おぎやはぎ9票事件」だ。
第1回『M-1』で何が起こったか
第1回『M-1』では、審査員7名に加えて、札幌、大阪、福岡の3会場にそれぞれ100人の一般審査員を集め、投票が行われた。審査員の100点満点に加え、一般票が各会場から100票ずつ。その合計でファーストラウンドの審査が行われたのだ。
おぎやはぎの漫才は、今とほとんど変わっていないスタイル。会場のウケも悪くはなかった。だが、審査員の得点発表に先立って行われた一般票の集計に、客席から悲鳴が上がることになる。
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札幌22、大阪9、福岡12。合計は43点。小木博明も矢作兼も、この事態に爆笑するしかない。
おぎやはぎの出順は5番手だった。それまで、1番手の中川家は3会場合計で223票、フットボールアワーは191票、松本人志が50点を付けているチュートリアルでさえ154票、アメリカザリガニは優勝した中川家を凌ぐ242票を獲得している。その直後のおぎやはぎ43票、大阪9票という数字が与えた衝撃は、今でも昨日のことのように思い出せるほどだ。
おぎやはぎは、ひとしきり爆笑した後、大声で何か言っているが、マイクが切られて映像には明瞭な音声が入っていない。MC・赤坂泰彦の「いや、まだわかりません!」という煽りがスタジオに空しく響く。アシスタントの菊川怜も言葉を失い「数字って、リアルですね……」と声を絞り出すしかなかった。
結局、『M-1』における一般投票は翌年から採用されず、人選を入れ替えながら芸人や落語家が担当するようになった。
まさに、おぎやはぎの最下位がルールを変えたのだった。
『M-1』最下位芸人の系譜
マヂカルラブリーとおぎやはぎ以外にも、『M-1』で最下位になった後にブレイクを果たしている芸人は決して少なくない。
03年、04年と2年連続トップバッターで最下位となった千鳥、22年王者のウエストランド・井口浩之がいまだに「10位よりウケなかった」とネタにしている20年大会で当の10位だった東京ホテイソン、それに南海キャンディーズ(05年)、ハライチ(15年)、ニューヨーク(19年)、ランジャタイ(21年)など、その系譜は枚挙にいとまがない。
17年の最下位から3年後の20年に『M-1』王者となり、ゲーム制作やジム運営など仕事の幅を広げている野田クリスタルと、10年台にはバラエティ番組のMCを数多くこなし、現在ではクルマ、ゴルフ、キャンプと趣味番組を多く持つようになったおぎやはぎ。理想的なキャリアを重ねる芸人たちの「最下位トーク」は、いかにも趣深いものだった。
(文=新越谷ノリヲ)