シュガー・ベイブのメンバー(左から)村松邦男、大貫妙子、鰐川己久男、山下達郎、野口明彦 「何でこんなとこでやんなきゃなんないの?」。そんな不満を抱えながら、22歳の山下達郎が作った『SONGS』は、やがて時代を超えて愛される名盤となった。ロック全盛の時代にあって、R&Bやビーチ・ボーイズに心を寄せた異端の存在。主流とは違う場所で、何を感じ、どんな景色を見ていたのか――。50周年を迎えた山下達郎が語る、“あの頃”と“今”。貴重なロングインタビューの中編をお届けする。
【画像】50周年を迎えた山下達郎のステージショット ■当時の大学生はみんな「R&B? クサいよね?」みたいな感じでね
――オリジナルが発売された1975年の時代背景についても教えてください。シュガー・ベイブのみなさんは、バンド結成前後に四谷のロック喫茶・ディスクチャートに出入りしていたのは有名な話です。そんなディスクチャートとは、当時としては文化的にどういうお店だったんでしょう。
ロック喫茶が生まれたのは1960年代の後半です。ほとんどのロック喫茶は、ジャズ喫茶を転用したお店だったんだよね。代表的なところとして、僕は渋谷のブラックホークという店に通っていたのですが、そこももともとはジャズ喫茶でした。それがロックをかけるようになって、かける音楽もブリテッシュ・トラッドとか、だんだん変態になってきてね(笑)。その横には、今でもやっているB.Y.Gって店があって、そっちでかかるのは、もっといわゆる“ザ・ロック”。で、ディスクチャートは、そもそも四谷にいーぐるっていう有名なジャズ喫茶があるんですけど、そこが区画整理で移転しなければいけなくなってね。その関係で、しばらくの間、旧店と新店が並列に営業されていたんです。いーぐるが移るまでの間、もう片方の店舗で何かやらなきゃならないから、ロックをやろうっていう。そのときに、店のオーナーの後藤雅洋さんが、長門芳郎くんたちに店の経営を任せたんですよね。長門くんは長崎出身で、彼の仲間たちは“長崎グループ”って言われていてね。彼はラヴィン・スプーンフルのファンクラブをやっていた。すごく記憶力が良くて、レコードを見たら2度とデータを忘れないという、今で言う“オタク”で、人が聴いてないものを一生懸命聴いてる。
――長門さんは、のちにシュガー・ベイブのマネージャーを担当されたことでも知られていますし、レコードショップのパイド・パイパー・ハウスを運営されていたことでも音楽ファンにお馴染みです。
当時はロックといえば、ジミ・ヘンドリックス、クリーム、ヴァニラ・ファッジ、レッド・ツェッペリン…っていう感じの世界だったんだけど、僕にとってのアイドルグループのひとつは、ビーチ・ボーイズでした。でも、当時はロック喫茶でビーチ・ボーイズなんてまずかからない。その頃の日本は、洋楽を聴いてる人でも「ビーチ・ボーイズ?」って感じだったんですよ。
――ビーチ・ボーイズがロック喫茶でかからないほどマイナーな存在だったというのが驚きです。
日本では全然売れてなかったから。実は50年前って、今のメディアが流布している歴史とは全然違っていたんです。ロイ・オービソンなんて、日本じゃ知名度なんてほとんどありませんでしたから。僕はちょっと遅れて入った世代だけど、ロイ・オービソンが聴きたくてレコード屋に行っても、全部廃番だって言われました。モータウンだって、大半は2、3年遅れ。「マイ・ガール」や「ゲット・レディ」なんて、みんな2、3年遅れでした。しかも、当時の大学生はそんなものは聴かない。「R&B? クサいよね?」みたいな感じでね。
――そういう評価だったんですね。
そういうものだったんですよ。大学生はみんな、ギター・オリエンテッドっていうか、クリーム、ジミ・ヘンドリックス、レッド・ツェッペリン、そういうものを聴いていたわけ。R&Bとかロカビリー系を聴いていたのは、いわゆるヤンキー、ツッパリと呼ばれる人たち。当時のダンス系はヤンキーの文化だったんですよ。わかりやすいところで言えば、キャロル、クールズ、シャネルズ、バブルガム・ブラザース。シャネルズは当初のドゥー・ワップから、のちにラッツ&スターとして、R&Bスタイルに変化していったでしょ。だから当時は、ロン毛でR&Bを聴いてるやつなんてほとんどいませんでした。そういう意味でも僕は異端だったんです。シュガー・ベイブを始めた頃、メンバーにカーティス・メイフィールドとかジェームス・ブラウンを聴かせると、メンバーは「何これ?全部同じじゃん」「コードが1個しかない」って。でも、その反応が普通だったんですよ。R&Bの深い部分はFEN(米軍の極東放送網)でしか聴けなかった。カタログもろくに出てないし、輸入盤もまだ入手困難でしたから。あの時代は、輸入盤が欲しかったらヤマハに行って書類で申し込んで、3ヶ月ほど持たされて船便で届く。そういう時代だった。日本盤が1800円だった時代に、2700円くらい払っていましたね。
――個人輸入になってしまうから、高くなるんですね。
まさにそうです。そういう時代だから、音楽を聴くのにすごく努力がいる。でも幸い、東京には米軍基地があるから、FENが聴けた。FENは三沢や岩国でも聴けました。でも、大阪にはFENがないんですよ。だから1970年代初期の大阪の音楽シーンは独特の発展の仕方をしてたんです。関西ブルースとかね。あれは大阪のレコード店の力とか、大阪のラジオの力とか、そういうものがすごく影響していて。特殊でしたね。京都もそう。そういう文化史的な側面の話をすると、また長くなるから…(笑)。
――じゃあ、そういった時代の中で、ディスクチャートに出入りしていた人の文化的感度は…。
そうだ、ディスクチャートの話だった(笑)。僕がディスクチャートに行った最初のきっかけは、まず19歳の頃に自主制作盤(『ADD SOME MUSIC TO YOUR DAY』。村松邦男や鰐川己久雄など、のちにシュガー・ベイブで活動をともにする面々と共に制作した)を1枚作ったんです。その自主制作のメンバーだった友人が、四谷に新しくできたばかりのディスクチャートに、バイトの帰りに立ち寄ったところ、ビーチ・ボーイズがかかっていたんです。そこにいた店員に自主制作盤を聴かせたところ、少し経って、長門くんから「自分も1枚欲しい」と連絡がきたんです。それが長門くんとの初めての出会いで。初めて会ったときに彼はソッピース・キャメルのアルバムを持ってきて、僕はイノセンスのアルバムを持っていって、おたがいに「やるな」って感じで貸し合ったりして(笑)。そうやってしばらく交流していくうちに、長門くんの同期の小宮(やすゆう)くんというシンガーソングライターや、「くじらの唄」という作品でレコードデビューしていた西口(純一)くんとか、長崎出身のグループとも仲良くなった。彼らから、毎週水曜日の夜中にディスクチャートでセッションをやってるから遊びに来ないかって誘われたんです。
そこに行ったら、大貫妙子さんがいてね。彼女はフォークグループを辞めたばかりで、矢野誠さんが面倒をみていた。店のオーナーの後藤さんと矢野さんは学校の同級生という関係でした。みんなでターボー(大貫)のデビューを手助けしようって話になっていたんですよね。そこには、長崎グループの他に、徳武(弘文)くんとか、武蔵野タンポポ団の山本コウタローさんと若林純夫さん。みんなでアイデアを出し合って、ターボーの「午后の休息」って曲を演ってたんですよ。そこに僕が割り込んだ(笑)。そこから「バンドを作ろう」ってターボーを誘ったわけです。ギターとベースはもともとの僕の友達で、ディスクチャートのメンバーだった野口(明彦)くんが「ドラムをこれからやりたい」というのでドラムにして。それでできたのがシュガー・ベイブ。1973年のことだね。
――そうして結成されたシュガー・ベイブは、1枚目にしてマスターピースを生み出したわけですね。
ははは、マスターピースでも何でもないけど(笑)。
■シュガー・ベイブがデビューしたときのレコード評にはろくなものがなかった
――リリース当時は達郎さんは20代前後の若者で、青春時代といってもいい時期だったと思います。楽しかったですか?
いや、大変でしたよ。若造ですからね。19歳で初めてディスクチャートに行って、1973年は20歳です。大学に入ったけど休学して、バンドを始めて、結局そのまま退学して。ただね、洋楽の知識がかなり特殊なものだったのが、あとあと役立つことになった。アマチュアバンドでビーチ・ボーイズのコピーをやっていたので、自主制作盤もその延長で。ビーチ・ボーイズをやるアマチュアバンドなんてものは絶無の時代。他の人は大体、クリームの「クロスロード」に、ジミヘンの「パープル・ヘイズ」。そうじゃなければ、ビートルズ。コーラスやろうなんていうやつは誰もいなくてね。
池袋ヤマハにアマチュアバンドのサークルがあって、月に1回オーディションをやるんですよ。そこで1番上手い人たちは“エースメンバー”っていって、ビアガーデンの仕事なんかをもらえるんです。上から順に、エース、シニアハイ、シニア、ジュニアハイ、ジュニア、ビギナー、というランクがあって。細野さんがその頃やってたバーンズとか、寺田十三夫さんとか、成毛(滋)さんのザ・フィンガーズ、そういう人たちがエースメンバーでした。僕らはシニアハイまでいったけど、さすがにエースにはなれなかった。上手い人は上手いからね。しかも当時、楽器を買えるなんてのは、やっぱり金持ちの家の子じゃないとね。サラリーマンの初任給が4万5000円のときに、テレキャスターは17万円。レスポールなんて32万したんだから。
――1ドルも、今より全然高い時代ですよね。
そう、1ドルが360円。ドラムにいたっては、ジルジャンのシンバル1枚が4万5000円。クラブとかキャバレーでバンドやってる人か、どっかの坊ちゃんじゃないと、中学生、高校生でそういう楽器はとても手が出ない。ただ、音楽を聴くという点では東京は恵まれていた。だから僕としては、中学や高校では「自分は音楽に対しての趣味がお前らとは違うんだ」って意識があるでしょ?それから音楽を作ろうと思って自分で曲を書き始めるわけです。で、最初は曲にもけっこう自信があって、それでバーっと世の中に出ていったら、物が飛んできたっていうね(笑)。
――野次られたんですか(笑)。
はっきり言って、シュガー・ベイブがデビューしたときのレコード評には、ろくなものがなかった。なぜかって?わからなかったからでしょ(笑)。笑えますよ、今読むと。どっかの雑誌なんて、「歌さえなけりゃいいのに」とかね、そういうことを書かれる世界だった(笑)。あとはね、日比谷野音のような場所で複数のバンドが出るような、いわゆる顔見世ライブが恐怖でね。演奏してると、「ノレねえぞ!」「踊れねえぞ!」ってね。当時のロックは多くが“集団騒擾”もしくは “風俗的発散”の場だったから。
――あんなにグルーヴィなのに。
リズムチェンジ、変拍子なんてもってのほか、曲中にブレイクがあってもダメなの。野外ライブなんて、乗せて踊らせてナンボだから、こういうスタイルの音楽は難しい。その反面、ライブハウスでの動員はトップクラスだったのが救いだった。あと、アマチュアバンドにはとても人気があった。なぜかというと、コピーしやすいんですよ。さっきも言ったように、シンプルなパターンの組み合わせだから、演奏しやすい。逆に、例えばザ・バンドなんかは、完全に各々のインタープレイで演奏してて、決まりごとがないので、とても難しい。
話が逸れましたけど、『SONGS』を出したときは、そうやって世の中とのギャップを思い知らされたんですよ。よく考えてみれば、そりゃそうだよね。だって僕は、誰も聴かないような音楽しか聴いてこなかったんだから。誰も聴かないような音楽を聴いてきた人間の作る音楽を、誰が聴くんだって。ところが、発売してから10年くらい経ったら、ひと世代下の「聴いてました」みたいな人が増えてきたんです。そういう人は発売時には見えなかったし、見えるところにいた音楽評論家は、ろくな奴がいないかった(笑)。だから、最初はそういう連中を論破していかないとどうしようもなかった。新聞記者だって、言っていることが悪意としか思えないこともあったから。そういう部分と…ディベートだよね、一種の。本当は音楽って、言語で説明できるものじゃないわけです。だけど結局、言語で説明できないやつは知的じゃないって思われるんですよね。自分の音楽を自分で解説しなきゃいけない。生き残ってる人たちを見てごらんなさい。みんな口が立つでしょ?もの静かで無口なやつは「あいつは思想がない」なんて言われちゃうんだよ。
※後編は5月5日7時公開
(聞き手:加藤一陽)
山下達郎(やました・たつろう)
1953年生まれ、東京都出身。日本を代表するシンガーソングライター、音楽プロデューサー。1975年にシュガー・ベイブとしてデビューし、シングル「DOWN TOWN」、アルバム『SONGS』を発表。翌年、ソロ活動を開始し「RIDE ON TIME」「クリスマス・イブ」など多くのヒット曲を生み出す。4月23日には活動50周年を祝した記念アイテム『SONGS 50th Anniversary Edition』と「DOWN TOWN」の7インチレコードを発売。