飯田誠さん(仮名・52歳)。都内有名私大の教職課程を履修して卒業後、非常勤講師に。離れて暮らす親の介護も不安。心のよりどころは地下アイドルの推し活現在41〜54歳の氷河期世代はまさに“受難の世代”だ。就職難から始まり、なんとか会社に潜り込めても、リストラに怯え、退職後は年金までむしり取られるのは必至。時代に翻弄され続ける彼らの実情に迫った!
◆1人の教員採用枠に300人が殺到
バブル崩壊後、1993年から’04年にかけて多くの企業が新卒採用を大幅に減らした就職氷河期。1990年代末には大手金融機関が相次いで破綻。’00年の大卒者の就職率は50%台にまで低迷し、就活戦線は大いなる“異常”に見舞われていた。
「もはや就職できれば『どこでもいい』と思っていました」
そう当時を振り返るのは、私立校の非常勤講師、飯田誠さん(仮名・52歳)だ。直近の4年間は月収4万円の「実質、無職状態」だという飯田さんだが、苦境は新卒の就職時から始まっていた。
「この頃、新卒採用抑制の流れは教員採用の現場にも及んでいて都立高校では1人の採用枠に300人が殺到するのもザラ。今でこそ教員の『なり手不足』が問題視されていますが、当時の僕たちに正規採用なんて夢のまた夢でした」
◆非常勤講師として約10年間“漂流”
かろうじて都内の中堅女子校に職を得た飯田さんは、理科の非常勤講師として勤めることになった。
「手取りは16万円でしたが、実家暮らしだったので、なんとか生活はできていました」
折しも、1990年代後半からゼロ年代半ばにかけては労働者派遣法の度重なる改正で、非正規雇用の枠が一気に拡大した時期でもある。その後、同一賃金同一労働の原則は反故にされ、「派遣切り」が大きな社会問題となるが、飯田さんもまた非常勤講師として約10年間、“漂流”することになった。
「ようやく私立の男子校に潜り込めたのは33歳のときでした。だけど、職員室を見渡すと50〜60代の年配と20代の新人ばかり。数少ない同期に正規教員はほぼおらず、人件費削減のために非常勤講師が使い捨てされている状況でした」
◆過労死ラインを超える過酷な労働
国が「働き方改革」なるスローガンを掲げる10年も前のことだ。飯田さんはそんなブラックな職場で、過労死ラインを超える過酷な労働を強いられた。
「毎朝6時台に出勤し、部活指導と授業準備を終えて、退勤するのは20時過ぎ。恋人とも会う時間がなくなり破局しました。貯金だけが微増していきましたね(苦笑)」
それでも日々の激務をこなし、やがて「他に人がいないから」という理由で、学年主任に抜擢される。年収は600万円になったが、めまいや頭痛など身体的不調を覚えるようになったのもこの頃だ。
「さらに追い詰められたのがモンスターペアレントです。事あるごとに3〜4時間、クレーム電話をしてきて、教育委員会から文部省にまで連絡するような親でした。しかし学校側は『生徒の個性を重視する校風』を掲げて親の言いなり。対応はすべて中間管理職の自分に回ってきました」
◆うつ病で休職、“実質無職”状態に
やがて飯田さんはうつ病と診断され、1年間の休職を余儀なくされた。
「復帰後は当時の校長の“非常勤からゆっくりやり直せばいいよ!”という甘言に乗って非常勤に。この4年間は最少時限の2単位のみの契約。月収4万円台という“実質無職”状態です。家賃は月8万円。貯金を取り崩していますが、1000万円あった貯蓄もまもなく底を突く寸前。主治医には塾の講師でもやればどうかと言われていますが、この年で新しい仕事に挑戦する勇気も気力もありませんね。新しく校長になった後輩が便宜を図ってくれるといいのですが……」
就職難でつまずき、その後も時代に翻弄された飯田さん。その苦境を自己責任に帰するのは酷な話だ。
取材・文/週刊SPA!編集部 イラスト/神林ゆう
―[[氷河期貧困]の実態]―