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※画像生成にAIを利用しています 朝から晩までパチンコやパチスロを打ち、勝ち金で生活をするパチプロ。20代ならまだしも、30代、40代となるにつれ、世間の風当たりの強さに足を洗う者も多い。気ままな稼業の代名詞とも言われる彼らは、一体どんな人生を歩んでいるのだろうか。
◆高校2年にしてパチスロの内部仕様を理解
「ウチの父親は運送屋をやっていまして、子供の頃から口酸っぱく『早くウチの仕事覚えろ』って言われてました。高校時代も夏休みとかは運送の手伝いのバイトをさせられるから、それがイヤで母親に頼んで塾に通ったりしてたんですよね。まぁ、そのお陰でストレートで大学に入れたので、結果的にはよかったなと」
のっけから何ともパチプロらしからぬ話をしてくれたのは、本多亮介さん(仮名・47歳)だ。本多さんは現在、某県で運送業を営む社長として100人近い従業員を取りまとめ、時には自分でハンドルを握って東奔西走するその姿は、二代目社長とはいえ立派なものだ。
では、そんな本多さんは一体どのようにしてパチプロの道へ踏み込んだのだろうか。
「高校時代に先輩から誘われて『ニューパルサー』を打ったのが初めてのパチスロでしたね。初めて打って7000円くらい勝ったんですよ。それでおもしれぇ!ってハマッてしまいました。当時はネットもなかったので、わかんないことは先輩に聞きまくりましたが、先輩もそんなに詳しくなくて(笑)。でも、店員に聞いてもわかるワケないので、あらゆるパチスロ関連の本を読んで、独学でパチスロについて学んだんです」
その結果、本多さんは高校2年生の冬には抽選の仕組みからリール制御、払い出し率など、パチスロの中身についてほぼ完全に理解したという。
◆設定判別による成功体験を積むことに
そして初めて、攻略における成功体験をすることとなる。
「ある日、オバチャンが1箱持ってヤメたニューパルサーを打ってみたら、判別ゲームで小役が落ちまくって。『え?この台って設定6?』みたいな……。結局、閉店まで打ち切って4千枚ちょっと。当時、ウチの近所は8枚交換だったから5万円いかないくらいのプラスでしたが、勝ったカネよりも設定を見抜けたってことがたまらなかったですね」
とはいえ、そうそう設定6を摑むことはできない。設定判別はできるようになったものの、さして収支は上がらなかったと本多さんは話す。
「当時のホールは年齢層の高いお客さんが多くて、店としては中間設定を使って、ある程度遊べるようにしとかないとすぐに飛んじゃうんですよね。だから、設定5・6を摑んだことも何度かありました。でも、初期投資が嵩んだりすると8枚交換の換金ギャップもあって、たいしたプラスにならないことも珍しくなかったです」
◆生まれ持った目押し力
知識レベルもさることながら、本多さんには天賦の才があった。それは動体視力のよさだ。この動体視力のよさは目押し力に遺憾なく発揮され、最大の武器として後のスロプロ生活を支えることになる。
「動体視力がいいのかわかんないけど、最初から目押しはできました。ニューパルサーのリプレイハズシも雑誌に書いてあるとおりやったら、うまいことできて、『あ、こんなもんなんだ』ってなりまして。通常時はキッチリ小役狙って取りこぼしもせず、BIG中はリプレイハズシもしていたので、普通の人が同じ設定6の台を打ったとしても、終日打ち切ったら自分のほうが1000枚以上は多く出ていたと思います」
◆ストレートで早稲田に合格し東京へ
こうして学業とパチスロの両立をこなし、高校を卒業すると早稲田大学に入学。口うるさい父親から距離を置くことにまんまと成功したのであった。
「早稲田に行こうと思ったのは、さすがの父親も早稲田だったら文句言わないだろって思ったからです。当時は『せっかく大学入ったんだから、ちゃんと勉強してこい』と、ムスッとして言われたんですけど、自分としては『コレで家から出て行けるぜ!ラッキー!』みたいな感じでした。でも、文句どころか、いろんな人に『いやぁ〜ウチのガキ、なんか知んねぇけど早稲田って大学に入っちゃってさぁ〜』って言いふらしてたみたいなんです。本当は嬉しかったみたいで……。でも、この話を聞いたのは父親が亡くなった後でした」
こうして東京に出てきた本多さん。父親から解放されたことで好き放題の毎日を送ることになる。
◆ビーマックスとの出合いで再びスロットを…
ホールにお金が落ちているとまで言われた90年代半ば。技術介入全盛期にもかかわらず、本多さんはパチスロよりも青春を謳歌することに専念していたようだ。そんな本多さんが再びスロットの道に足を踏み入れたのは、“とあるパチスロ台”との出合いだった。
「大学3年の頃、久しぶりに打つかぁ〜って、たまたま打ったビーマックス。この台でまたハマッてしまいました。リプレイハズシやれば平均560枚。初めて打ったときに600枚超えたんだけど、目押しできるだけでこんなに出るんだ!って興奮しましたね。しかもこの台、ビタハズシができれば機械割もかなり甘い。何よりもあのサウンドとデザイン。もう、見た瞬間からビビッときて、もう“寝ても覚めてもビーマックス”といった状況でした(笑)」
◆就職浪人中もスロットを打ち続ける
水を得た魚のようにビーマックスを打ち込んだ本多さんだったが、頭の片隅では「こんなんずっと続かないよなぁ……」という思いも常にあったという。
しかし、時代はパチスロ狂乱の時代が始まろうとしていた90年年代後半。本多さんの思いとは裏腹に、パチスロは過激な仕様の台が次々とリリース。ホールも出玉合戦の様相を呈するようになっていった。
「大量獲得機全盛になると、いろんな台が出てきて楽しかったです。この頃はもうバイトもヤメてスロット一本。自分たちの世代は氷河期世代ど真ん中で就職活動がスタートしました。早稲田でもなかなか思うようにいかない人は多くて、あくせく就職活動して大したことない会社に入って歯を食いしばって働くのはどうかなぁって。とりあえず就職浪人って形で一年浪人したんですけど、結局ずっとスロット打っていましたね」
◆実家とは絶縁状態もスロットは絶好調
こうした生活に職人気質の父は黙っているはずはなく、口うるさい父親を敬遠して本多さんは実家と絶縁状態に。
だが、スロットは絶好調。「実家なんてどうでもいいや」とばかりに、本多さんはスロプロ稼業にドップリとハマッていったのであった。
「とにかく絶好調。“大学5年生”の頃にはホールで知り合ってできたスロ仲間みたいなのがいて、みんなでデータ取って情報交換していました。でも、素直に喜べなくなってきたんです。大学の同期は苦しい思いをして内定を勝ち取って就職して、あくせくしながら働いてるのに、1人プータローみたいなことやって取り残されたっていうか……」
結果、本多さんは大学を卒業してそのままスロプロ生活にはいることとなった。そして本多さんの人生は、ここからさらに大きく変わっていくことになる。
文/谷本ススム
【谷本ススム】
グルメ、カルチャー、ギャンブルまで、面白いと思ったらとことん突っ走って取材するフットワークの軽さが売り。業界紙、週刊誌を経て、気がつけば今に至る40代ライター