蒼井エレナさん インフルエンサーとして活動する蒼井エレナさん(35歳・@AoiElena1)の身体は刺青に覆われている。小麦色の肌に、和をモチーフにした刺青が彼女の生きてきた道程の“凄み”を演出している。紆余曲折などという生ぬるい言葉では言い表せない奈落を彷徨った半生に迫る。
◆「お父さん」と呼んだ人が4人いた
――その派手な外見と裏腹に、幼いころは意外にも内気な性格だったと伺いました。
蒼井エレナ:そうですね。現在の外見からは想像できないほどおとなしい性格だったと思います。それには、一緒に暮らした“男性”も幾分か関係するかもしれません。
母と暮らしていた際、私には「お父さん」と呼んだ人が4人いました。1人目は本当の父親で、私が赤ん坊の頃に離婚したようです。2人目が再婚相手。で、その3人目にあたる人の記憶が色濃いのです。その人は、かなりのDV気質でした。もともと私の親友のお父さんだった人で、家族ぐるみで仲良くしていたんです。それがいつの間にか小3くらいのときに母との不倫関係に発展し、そのまま家に転がり込んでくることになりました。
私が長期休みのときに3人目の父親は家にいて、母が働きに出るので、地獄だったのを覚えています。その人がいると、私は緊張してものが食べられなくなるんですが、彼はそんな私に「朝ご飯を食べるまでずっと椅子に座ってろ」と言って解放してくれないんです。たいてい、母の仕事終わりの時間――夕方くらいに解放されるのですが。深夜に母と3人目のお父さんが大喧嘩をして、よく母が泣いているのを聞きました。手も上げられていました。結局、小5くらいで別れたのだと思います。
◆「旅先で出会った人と結婚する」と宣言した母
――その後も、蒼井さんはお母様の交際相手に振り回されていくのでしょうか。
蒼井エレナ:それまで住んでいた北海道を離れて、宮城県に移り住んだのは中2のときでした。これも、母の交際相手を頼って引っ越しをしたんです。出会い方がドラマチックで、母がちょうど宮城県に旅行にいっていたんです。ちょうど私は体育祭の日で、「なにもこんな日に旅行しなくてもいいのに」と考えていたんです。旅行から帰った母の言葉は、ちょっと拗ねた気分の私の想像を遥か上を行くものでした。「旅先で出会った人と結婚するから、北海道へ行こう」と言われたんです(笑)。
母が大真面目に「男はこれで最後にするから」というので、私は承諾しました。私は今よりだいぶおとなしい性格で、いじめの標的でもありました。現に、転校する私への手紙を書こうという流れになったのですが、ごく少数を除いて、「死ね」「転校先でもいじめられるかも」といった内容で、絶句しました。
◆4人目のお父さんには、失踪癖があり…
――蒼井さんの学生生活も壮絶ですが、その後のお母様の恋がハッピーエンドなのかも気になります。
蒼井エレナ:4人目のお父さんとは比較的長く一緒にいましたね。10年近く一緒にいて、別れたのではないでしょうか。ひと目見てわかる“悪い人”で、でも私はなんとなくその雰囲気が嫌いではありませんでした。決別したのは、彼が定期的に失踪する人だったからです。離婚するまで気づかなかったのですが、彼は覚醒剤をやっていた影響で、いろんなことがうまく行かず、どうでもよくなって失踪していたらしいのです。だから、後から人づてに覚醒剤のことを聞いて、私も母も心底驚きました。かなりいろんな迷惑を被ったものの、今でも嫌いにはなれない人ですね。離婚してからも、私は一緒に暮らしていたくらいです。
◆母の気持ちがわかるようになった
――お母様が選ぶ人は、いわゆる家庭を築くのに向いていないように感じられるのですが、蒼井さんは子どもとしてどんな気持ちで見ていたのでしょうか。
蒼井エレナ:女性としての幸せを求めてはうまくいかないのを繰り返した母は、あるとき豹変してしまいました。「あんたなんか産まなきゃよかった」「あんたのせいでこうなった」と、私を攻撃的な言葉で責め立てて、以前の母ではないように感じ、悲しかったです。
でも最近、何となく母の気持ちがわかるようになりました。実は3人目のお父さんと母は、別れてからもきっぱり縁が切れることがなかったんです。その3人目のお父さんが末期がんであることがわかり、母と一緒に会いに行こうか相談していた矢先、訃報が届きました。共通の知り合いによると、3人目のお父さんはすでに新しい奥さんがいたけれども、心の底から母のことを愛していたらしいんです。母もまた、そうだったのではないかと思います。母になっても誰かの愛情に支えられて生きていく、そんな生き方もきれいだなと今は思います。
◆辛かった「親友の自死」
――これまでを振り返って、蒼井さんが最も悲しいと感じたことは何でしょうか。
蒼井エレナ:母のことは好きですが、いわゆる世間的に言えば“毒親”なんだろうなとは感じます。でも、母親がああいう人だからこそ、まともな人生にはならなかった代わりに今の自分があるなと強く感じます。もしも普通のレールを歩いていたら、私みたいな人間はきっと憂鬱さを抱えて生きなければならなかっただろうなと思うんです。
それよりも、人生で辛かったのは親友の自死でしょうね。ちょうど4人目の父親になる人と住むために宮城県に渡って以降、転校先でとても仲良くできる子を見つけました。家族ぐるみの付き合いをしていて、何でも話せる心の友でした。
◆「最も思い入れの深い刺青」は親友と一緒に入れたもの
――どのようなご友人だったのでしょうか。
蒼井エレナ:私も彼女も素行が悪く、恵まれているとは言い難い生い立ちのために薬物に手を出して、刹那的な快楽に逃げることもしばしばあったのですが、彼女はどんどん希死念慮を強くしていったように思います。結局、同棲相手と住む部屋で縊死をしてしまったんです。彼女の母親と私の母親の配慮で、私は彼女の遺体を見ていないんです。亡くなる直前に口論になってしまい、それきりになってしまったのが悔やまれます。ただ、彼女が持っていたもののなかに、2人の友情を確認できるメモ書きがあったと彼女のお母さんが見せてくれました。それが私と彼女をずっとつなぐものだと今も信じています。
実は17歳のとき、一緒に初めての刺青を入れたのも彼女です。親友は左の二の腕に鳳凰を、私は右の二の腕に鯉を入れたんです。そして、左耳の裏側には、彼女と全く同じ位置に全く同じ模様が入っています。これは、私にとって最も思い入れの深い刺青です。
◆志半ばで去っていった親友たちに思うこと
――生い立ちの不遇さから精神的に病み、不幸にも亡くなってしまう方がいるのは歯がゆいですね。
蒼井エレナ:本当にそう思います。男性ですが、親友と呼べる子がもうひとりいて、彼もまた精神疾患を患って自死してしまいました。彼のお母さんもまた自死をしていることもあって、私もとても気にかけていました。2人で高層マンションを眺めて、「ここから落ちれば死ねるけど、それは絶対やっちゃいけないよね」と言い合っていたまさにそのマンションから、身を投げてしまったんです。この喪失体験も、現在の私の核になっていると思います。
――さまざまな悲しみとともに生きる蒼井さんですが、今後、どのような活動をしたいと考えておられますか。
蒼井エレナ:これまでインフルエンサーとして活動してきましたが、それに加え、音楽活動を開始することにしました。ジャンルはラップです。私自身、何度も「もう生きていたくない」と思いながらただ生かされてきました。きっと今この世界にはそんな人がたくさんいるのだと思います。過去の自分を励まし、あのときの自分を同じように前に進めない人たちが「人生1回だからやれるだけやってみよう」と思える楽曲を作れたらいいなと思っています。そうやって人生を塗り替えることで、志半ばで去っていった親友たちに恥ずかしくない生き方をしていければと思っています。
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凄絶な過去を知っていま一度蒼井さんの背中の刺青をみると、覚悟と後悔が綯い交ぜになった独特の色を帯びているのがわかる。力なき時代、大人たちに翻弄され続けた記憶。心から共感し合える無二の仲間は人生の舞台から降りた。蒼井さんがリリックを届けたいのは、亡き親友であり、思いを同じく生きる見も知らぬ人であり、他ならぬ自分。蒼井さんが言葉に魂を宿す。それが生きづらさを抱える人たちの世界を変えて、本当にこの世界さえも変えてしまえばいい。辛くも優しいビートがそんな期待を持たせる。
<取材・文/黒島暁生>
【黒島暁生】
ライター、エッセイスト。可視化されにくいマイノリティに寄り添い、活字化することをライフワークとする。『潮』『サンデー毎日』『週刊金曜日』などでも執筆中。Twitter:@kuroshimaaki