【平成の名力士列伝:隆乃若】眠れる才能を開花させるも訪れたまさかの悲運と多才な人間性

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2025年05月24日 07:10  webスポルティーバ

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連載・平成の名力士列伝44:隆乃若

平成とともに訪れた空前の大相撲ブーム。新たな時代を感じさせる個性あふれる力士たちの勇姿は、連綿と時代をつなぎ、今もなお多くの人々の記憶に残っている。

そんな平成を代表する力士を振り返る連載。今回は、大器の片鱗を見せながら悲運の相撲人生を歩んだ隆乃若を紹介する。

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【眠れる才能が徐々に開花】

 何も防具を身につけず、生身の体と体が激しくぶつかり合う相撲はケガがつきものであり、まさに"一寸先は闇"の世界だ。長身で均整の取れた体つきだった隆乃若も大関以上の素質がありながら、たった一日で相撲人生が暗転したと言っていいだろう。

 長崎県平戸市生月町の出身で、小学校時代から上背があり、中学時代はバスケットボールに打ち込んだ。身長は中学3年間だけで20センチも伸び、卒業時には187センチになっていた。角界入りのきっかけは中3の時に地元の神社の奉納相撲大会に参加したことだった。小学生の時に空手で体を鍛えていたが、相撲は未経験ながら他校の相撲部員を寄せつけず、好成績を収めたことが知人を通じて鳴戸親方(元横綱・隆の里)の耳に入り、さっそくスカウトを受けることになった。

 すでにバスケットボールでの特待生として高校入学の話があったが、親方の熱心な誘いにほだされ、中学卒業と同時に平成4年三月場所、初土俵を踏んだ。同じ鳴戸部屋の同期にはのちの関脇・若の里(現・西岩親方)、幕内の隆の鶴(現・田子ノ浦親方)がいた。

 長身だが細身の体、入門前から腰痛に苦しみ、出世は若の里の後塵を拝し、新入幕も1年半遅れの平成11(1999)年11月場所。入門から7年半を要したが、入幕2場所目の平成12(2000)年1月場所では10勝5敗で敢闘賞を受賞。その1年後には新小結に昇進するなど、大器は眠れる才能を徐々に開花させていった。

 三役の座は1場所で明け渡したが、2場所後の平成13(2001)年5月場所3日目には横綱・武蔵丸の猛攻を土俵際、左に回り込みながら何とか残すと叩き込んで最初で最後の金星を獲得。その後、肋骨骨折のケガのため、平幕下位に番付を落とすが、平成14(2002)年3月場所は12日目に10勝目を挙げ、同じ2敗の大関・魁皇とともに1敗で単独トップの武蔵丸を追走。「そんなことは全然考えていません。自分はまだ優勝する力はありませんから」と控えめに語るも優勝戦線に名を連ねる活躍で11勝を挙げ、2年ぶりの三賞となる2度目の敢闘賞を受賞した。

 復活の狼煙を上げると同年11月場所には11場所ぶりに小結に返り咲きを果たす。

 その11月場所、2日目は立ち合い変化からの素首落としで千代大海を仕留めると、翌3日目の栃東戦は土俵際での逆転の上手投げ。さらに8日目は過去11戦全敗の武双山を突き出して3大関を撃破。同じ九州、準ご当所・福岡の場所で11勝をマークして3度目の敢闘賞を受賞し「場所前は思ってもいなかった数字です。三賞よりも三役で勝ち越すことがこの1、2年の目標だった。三役で勝てる力をつけたいと稽古してきました」と切れ長の目をした"イケメン"の表情が綻んだ。

【大関取りを射程に捉えながらも......】

 翌15年1月場所は新関脇に昇進。素質がありながら勝ち身が遅く、雑な相撲でなかなか殻を破れなかった"未完の大器"にも、ようやく大関候補の呼び声がかかった。

「まだ三役に定着する力をつけていない。挑戦者の気持ちでやっていくだけ」と果敢にまい進し、13日目に旭鷲山を寄り切って勝ち越しを決めると、翌14日目は高見盛を寄り切り、2場所連続三役での2ケタ勝ち星にリーチを懸けた。

「2ケタを狙いたいですね」と千秋楽の琴光喜との関脇同士の一戦に勝てば、翌場所で大関取りに挑戦できるとあって気合いは十分だったが、琴光喜の横殴りの右張り手で顔が横を向いたところで相手の頭が直撃。脳震盪を起こして、膝から崩れ落ちた。左目付近も出血し、自力では起き上がれず、車椅子で退場した。

 左大腿亀裂骨折と左膝の負傷で翌3月場所は全休。一度悪い方向へ動き出した流れは歯止めがきかず、平幕で復帰した続く5月場所でも初日の安美錦戦で肋骨骨折と左膝骨挫傷の重傷を負って2日目から休場し、7月場所は幕内から陥落。大関を狙う関脇から2場所後には十両へと転落するという、まさに急転直下で"天国から地獄"を味わった。

 公傷休場明けの同年9月場所、十両で土俵復帰を果たすと12勝をマークして幕内に返り咲いたが、その後は膝を庇いながらの相撲で精彩を欠き、平幕2ケタの地位がほぼ"定位置"となってしまった。

 平成17(2005)年11月場所は初日から7連敗。8日目は途中で水が入る長い相撲の末、豊ノ島を上手出し投げに降して待望の初白星を挙げたが、好転のきっかけにはならず。翌日から再び連敗となり、11日目の若兎馬戦で右膝の半月板を損傷し、翌日から休場。翌場所から十両へ陥落すると幕内に返り咲くことなく、平成19(2007)年7月場所はついに関取の座も手放すことになり、幕下に落ちた。

 それでも土俵に上がり続ける執念を見せ、4勝3敗と勝ち越したが、幕下2枚目で迎えた翌11月場所、出だしから4連敗したところでついに力尽きた。

「このところずっと不本意な相撲が続いていたが、今場所の4番目の相撲を終えた時点で決意した。悔いはありません」と引退会見では言いきったが、表情からは無念さも滲み出ていた。

 入門前は学業も優秀で、5歳から始めたピアノの腕前は"玄人はだし"。ショパンも難なく弾きこなすなど、現役時代から多才な一面を見せていた。

引退後は協会には残らず、草野仁事務所に所属し、タレントとして活躍。その後は事務所を退所し、宅地建物取引士、フィナンシャルプランナー、管理業務主任、住宅ローンアドバイザーなどの資格を次々と取得し、現在は不動産関連会社に勤務している。

【Profile】
隆乃若勇紀(たかのわか・ゆうき)/昭和51(1976)年4月2日生まれ、長崎県平戸市出身/本名:尾崎勇記/所属:鳴門部屋/しこ名履歴:尾崎→隆尾崎→隆乃若/初土俵:平成4(1992)年3月場所/引退場所:平成19(2007)年9月場所/最高位:関脇

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