画像:「TBS公式【テレビ×ミセス】(tbstv_mga)」Instagramより“テレビは公共の電波”と言われます。本当にそうなのでしょうか? 首を傾げたくなる話題がありました。
◆大森と鎮西の匂わせ疑惑とネットの反響
それは、Mrs. GREEN APPLE初の冠番組『テレビ×ミセス』(TBS系・6月2日放送)で共演した大森元貴と、アイドルグループ「FRUITS ZIPPER」の鎮西寿々歌が揃って交際疑惑を否定するシーンです。
同じスマホケースを使っていることなどから、ファンの間で“付き合っているのでは?”とウワサされていた二人。このことに番組内のトークで触れ、放送後にもお互いのSNSで改めて交際を否定する投稿をしたのです。
この話題を扱ったネットニュースは軒並みバズり、多くのコメントが寄せられました。両者の説明に納得するファンもいたようですが、大森と鎮西のSNS上での親密なやり取りを知っているファンからは、にわかには信じがたいとの声も聞こえてきます。
さらに、大森が鎮西の誕生石の指輪をしている、なんて指摘もあり、真相はいかに……。
◆電波に乗せる価値はあるのか
と、ここまであらましを書いておいて何ですが、これは地上波キー局のゴールデン帯で放送するほどのことなのでしょうか?
確かにMrs. GREEN APPLEは、レコード大賞、そして先だってのMUSIC AWARDS JAPANでも大トリを務めるなど、いまや日本の音楽シーンを代表するグループです。FRUITS ZIPPERも人気急上昇中のアイドルグループなので、高い注目を集めることは間違いありません。
けれども、両者のファン以外で、大森と鎮西の関係性を知っている人がどれだけいるのでしょうか? 仮に知られていたとしても、わざわざ時間を割いてまで電波に乗せる価値のあるトピックなのでしょうか?
これが、Mrs. GREEN APPLE、もしくはFRUITS ZIPPERのYouTubeチャンネルで流れたのならば理解できます。ファンしか観ないからです。そういう内輪ノリが許されるフォーマットなのだから、常識の範囲内ならいくらでもやってかまいません。
◆テレビの公共性と“部外者”の不在
けれども、テレビは事情が異なります。電波は“国民が共有する財産である”と定義されていることが、放送の公共性を保障する根拠となっています。
そのことからすると、ファン以外にはそこまで認知されているとは言い難いミュージシャンとアイドルによる茶番めいた色恋沙汰を、さも旬の話題であるかのように番組の企画・構成に組み込むことに公共性があると言えるでしょうか?
つまり、ここには演者、関係者、ファン以外の他者が存在しないのです。観客としての他者がいないところで、自己完結型のエンタメごっこが繰り広げられている。
その構図が滑稽なのであり、そこに誰も違和感を感じていないことに絶望感が漂っているのです。
◆ファンダム文化とメディアの変質
“部外者=観客”の不在、そこから生じる公共性の欠如を考えるうえで、昨今のファンダム文化に触れないわけにはいきません。
今回のような極めて狭い内輪ノリでもビジネスが成立してしまうのは、アーティストとファンによる直接的で素早い経済の結びつきがあるからです。
けれども、このファンダムにおける直接のやり取りには、“部外者”という緩衝地帯がありません。それゆえに、消耗が早く、成熟とは対極の刹那的な消費に陥りがちになります。
ひいては、そうした幼い傾向が創作物の表現にもあらわれてしまう。それは、メディアが本来担っていたはずの“外部との対話”を失っていくことにもつながっているのです。まさに、大森元貴と鎮西寿々歌の匂わせ、という形であらわれたもの、そのものです。
そして、そのことは、もはやテレビが誰のために放送されているのかが非常に曖昧になっている現状をも映し出しています。
視聴率以上にSNSでの話題性に拘泥するあまり、コンテンツ自体が“ファン向けのライブ配信”みたいなクオリティにまで落ち込んでいるのではないでしょうか。本来、芸事は無関心な“部外者”をも惹きつけるオーラを持つものでした。しかし、いつからか、身近で、親しみやすく、“みんなと同じ”価値観を表現する人をスターに祭り上げるようになってしまいました。
『テレビ×ミセス』には、その無力感が如実に現れていたのだと思います。
<文/石黒隆之>
【石黒隆之】
音楽批評の他、スポーツ、エンタメ、政治について執筆。『新潮』『ユリイカ』等に音楽評論を寄稿。『Number』等でスポーツ取材の経験もあり。いつかストリートピアノで「お富さん」(春日八郎)を弾きたい。Twitter: @TakayukiIshigu4