
6月の第3日曜日は父の日です。誰もが知る、各界の有名人の父を持つ人たちに、これを機会に思いを語っていただきました。人前に出るようになったからこそ知った、「父の偉大さ」とはーー。
「昭和の爆笑王」と呼ばれた父を持ち、現在はその名を継ぎ、“二代目”として高座に上がる。
「名が襲ってくると書いて“襲名”です。年々、その重さが増えている」
自らに言い聞かせるように、林家三平さんは語る。三平さんが9歳のとき、初代は肝臓がんで亡くなった。父の印象を問うと、「噺家というよりもスーパースター。石原裕次郎さんや長嶋茂雄さんが、普通にウチに遊びに来ていたくらいですから」と笑う。
「あるとき、父が乗っているベンツがパトカーに止められたんです。窓を開けて、乗っているのが林家三平だとわかると、警察官が手帳を差し出して『サインください!』。さすがにびっくりしました(笑)」(三平さん、以下同)
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優しい父だったと振り返り、怒られたのは「2回だけ」だという。
「宿題をやらなかったこととクリスマスの願い事が多かったこと。これって今にも通じているんです。前者は、学ぶことを怠らずに、下地をきちっとつくれという意味。後者は、欲をかかずに、一つひとつ達成していきなさいという意味。私はそう解釈して、今も反芻しています」
見解を述べ合う『家族会議』で
初代は、子どもと同じ目線に立って物事を一緒に考えてくれる人だった。
「例えば、わが家には家族全員で夜のニュースを見て、おのおのが見解を述べ合う『家族会議』のような習慣がありました。私は子どもですからボキャブラリーはない。ですが、父は決して上からモノを言うようなことはしませんでした。自分から相手に歩み寄って、それでいて誰とでも同じ目線になれるからこそ、茶の間から愛されたんでしょうね」
それゆえ、二代目の看板は「重圧ですよ」と微苦笑する。
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「父は、特攻隊員でした。しかし、敗戦によって命を散らさずに済み、噺家の世界に飛び込んだ。死と隣り合わせを味わってきているわけですから、覚悟のボルテージがまるで違う。そういう意味でも、私はどうすれば父に近づくことができるんだろうと考えるんですね」
2025年は、初代の生誕100年という節目の年だ。6月11日〜20日には東京・浅草演芸ホールで記念興行が行われ、ゆかりのある多士済々が集う。トリを務めるのは、もちろん二代目。現在、三平さんは父が亡くなった年齢─54歳になった。「ここから先は父が生きることができなかった世界。楽しむことを忘れないようにしたい」。そう言って、初代を彷彿とさせる人懐っこい笑顔で声を弾ませる。
『どうもすいません』の真意
「兄である九代林家正蔵が古典落語をしっかりやっていますから、私は同じことをしてはいけないと考えています。三平らしい落語、大衆から好かれる芸人を目指すべきだと改めて思うんです。父の芸は、人の不幸をネタにせず、明るくて楽しい、人から愛される芸でした。不景気な現代にこそ、そうした笑いが必要ですよね。そのためには、私自身、楽しむ気持ちを持たないといけません。辛気くさい顔をしていたら、誰も笑ってくれませんから(笑)」
初代林家三平さんは、額に手をやって「どうもすいません」と口にするしぐさが代名詞だった。実は、真意があるという。
「『どうもすいません』と同じくらい『ありがとう』を大切にする父でした。『どうもすいません』ってね、単に謝っているのではなく、『あなたのおかげで今日も楽しくて、どうもすいません』という謝意なんですね。今なお、父から学ぶことはたくさんあります」
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はやしや・さんぺい 1970年、東京都生まれ。「昭和の爆笑王」初代林家三平の次男。中央大学経済学部在学中の'90年、林家いっ平として、林家こん平に弟子入り。'93年二ツ目、'02年真打ちに昇進。'09年3月、二代林家三平を襲名。兄は九代林家正蔵。6月11日〜20日まで『初代・林家三平生誕百年記念興行』(浅草演芸ホール)を開催。
取材・文/我妻弘崇 撮影/伊藤和幸(林家三平さん)