『ゴジラ-1.0』山崎貴監督と故・伊丹十三監督の意外な関係 「あの巨匠が喜んでくれた」

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2025年06月28日 19:01  ITmedia ビジネスオンライン

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デジタルメディア協会が主催する第30回AMDアワードで「大賞/総務大臣賞」を受賞した山崎貴監督

 2023年に世界的なヒットとなった映画『ゴジラ-1.0』。同作の山崎貴監督は、VFX(視覚効果)の専門家として、故・伊丹十三監督作品などによってキャリアを積んできた。その後2000年代になると『ALWAYS 三丁目の夕日』『永遠の0』など数々の話題作を監督として手掛ける。


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 一方でVFXクリエイターとしての山崎監督は、常に技術革新と現実との間で格闘してきた。『ALWAYS 続・三丁目の夕日』(2007年)では、日本映画で初めてフルCGゴジラに挑むも、テクノロジーの壁を痛感する。その後、時代が進み、そろそろフルCGゴジラを実現できると思った矢先に、庵野秀明監督の『シン・ゴジラ』(2016年)に先を越されてしまう。


 その衝撃と挑戦心が、『ゴジラ-1.0』の世界的成功の原動力となった。VFXクリエイターとして、映画監督として、時代の変化やテクノロジーの進化、若手とベテランが混在するチーム作りの中で、どのように作品を生み出してきたのか。前編【『ゴジラ-1.0』山崎貴監督に聞く、「前作超えヒット」を生み出す秘訣 日本映画界の課題】に引き続き、山崎監督に聞いた。


●VFXクリエイターの原点となった「伊丹監督との出会い」


――山崎監督は、映像制作会社の「白組」に所属し、VFX(視覚効果)クリエイターとしてキャリアをスタートしました。当時、山崎監督は『マルサの女2』(1988年)や『大病人』(1993年)など伊丹十三監督作品のVFXやデジタル合成を担当しています。伊丹監督とは、どのような交流があったのですか。


 伊丹監督には本当に感謝しています。こちらから何か「こういうこともできるんですよ」と提案すると、すごく興味を示して、ぐいぐいと積極的に関わってくれました。伊丹監督ならではの情熱というか、そういう姿勢が本当に素晴らしかったですね。


 伊丹監督は日活撮影所でいつも撮影をしていました。私たちは調布スタジオが拠点だったので、伊丹監督の現場ともすぐ近くでした。時代がどんどんデジタルに移り変わっていく中で、以前はフィルムで(現像済みの映写フィルムを別のフィルムに光学的に焼き付ける)オプチカルプリンターを使って1週間くらいかかっていた作業が、デジタル化によって社内でいろいろなことがすぐにできるようになったんです。


 例えば朝、伊丹監督に「このカットはこんな感じになっています」と見せると、「面白い。でもここをこうしてみて」とすぐにフィードバックをくれます。それを会社に持ち帰って、夕方までに修正して再度見せると、「もうできたの!」と本当に子どものように喜んでくれるのです。


 今までとは全く違うスピード感に、伊丹監督自身もとても喜んでいましたし、私たちにとってもそれが大きなモチベーションになっていました。あの巨匠があんなに純粋に喜んでくれたのは、ものすごくうれしい体験でした。


●プレイングマネジャーとしての監督像


――まさに“アジャイル”な映画制作をしていたのですね。その頃から山崎監督は監督を目指していたのでしょうか。


 「監督までやれたら最高だよね」という思いはありましたが、当時は本気で監督を目指していたわけではありませんでした。ただ、やはり自分でやりたいことが明確にあったんです。


 ずっとVFXをやってきて、宇宙人やロボットが出てくるような映画はなかなか自分の所にはやってきませんでしたし、怪獣映画も東宝の特撮チームがやるもので、私が手を出せるものではありませんでした。そうした状況の中で、自分のやりたいことを本当に実現するには、監督になるしかないという思いがどんどん強くなっていきました。


 もちろん映画を志す者として、「いつか監督をやりたい」という気持ちは誰しも持っていると思います。しかし私の場合は、「このままだと自分がやりたかったVFXとは違うものばかりを作り続けることになる」という危機感が大きかったのがあります。監督になれば、自分で企画を出すことや、やりたい方向性を目指せるのではないかと思っていました。「監督になれたら最高だな」という気持ちは、当時からずっと持っていました。


――山崎監督はもともとプレイヤーだったわけですが、監督となると何百人というチームをまとめるマネジャー的な役割をすることも必要です。その点で葛藤や難しさはありませんでしたか。


 正直に言うと、あまり「まとめる」ことはしていないんです。私は今でもかなりプレイングマネジャーの部分が強くて、脚本も自分で書きますし、絵コンテも描きますし、VFXの設計もやります。場合によっては自分でCGを作ることもあります。ですから、仕事を完全にスイッチしたという感覚はなくて、むしろ自分の中で担当するジャンルが増えてきた。そういう感じなんです。


 また、監督というのは、実は現場を一人でまとめあげるような役割ではないんですよ。いろいろなチーフスタッフと話し合いながら、映画の方向性を決めていくのが主な仕事です。もちろん、ディレクションとして舵を切ることはしますが、現場でみんなをまとめるのは、助監督やプロデューサーといった現場のプロフェッショナルたちが担ってくれています。


 私は「こういう方向にしたい」とか「こういうことをやってみよう」という提案をしていく立場であって、実際に人をまとめる能力が高いわけではありません。ですので、監督になったからといって、マネジャーに完全に切り替わった感覚はあまりなくて、今でも自分がプレイヤーである部分が大きいと思っています。


●待つことで実現した新たなゴジラの可能性


――『ALWAYS 続・三丁目の夕日』(2007年)の冒頭では、フルCGのゴジラが登場しました。山崎監督は当時のCGゴジラを、どう評価していたのでしょうか。


 私があのシーンで挫折したとするドキュメンタリーもありますが、実はそこまでではないんです。あの当時作ったフルCGのゴジラや、そのゴジラが壊している世界観という意味では、決して悪くない出来だったと思っています。あの時期にあれだけのことができたのは本当に良かったと思いますし、私もあれはあれで好きなんです。


 ただ、問題だったのは、あのゴジラのシーンを作るのに半年もかかってしまったことです。何人かのスタッフがその作業に専念しなければならず、このスピード感では本編を作るのは到底、無理だと痛感しました。


 半年もかけて、あの尺のVFXを作るとなると、2時間分の本編を作るには何年もかかってしまう。しかも、まだディテールも足りていないし、自分が本当にやりたいレベルのものにはたどり着いていなかった。もっとすごいものを作りたいという思いが強くなっていったんです。だから、あの時は「今はまだ待とう」と判断しました。マシンパワーと技術が上がってくるのを待つしかないと。


――そういう意味では、テクノロジーの進化が映画制作に大きな影響を与えたということですね。


 まさにその通りです。ずっと「今ならできるかもしれない」「もう少し待てばもっとできるはずだ」と、虎視眈々とチャンスをうかがっていました。そして「そろそろいけるかな」と思い始めた頃に、(庵野秀明監督の)『シン・ゴジラ』が登場したんです。まさに自分がやりたかったことを、みんながやっている。


 フルCGでゴジラを作り、ビルごと全部作って破壊する描写は、デジタルならではの精密さでした。時間と手間をかければ、本当に見たかったような破壊シーンやゴジラが実現できる時代が来たと感じました。やりたかったことを先にやられてしまった、という悔しさもありましたが、そこから「どうやって対抗しようか」と新たな挑戦が始まったんです。


――山崎監督は実写映画と『STAND BY ME ドラえもん』や『ドラゴンクエスト ユア・ストーリー』など劇場アニメーション作品の両方を監督している数少ない監督だと思います。両者に共通する課題や、実写とアニメの違いによる課題について、どのように感じていますか。


 アニメについては、実際の現場は八木竜一監督という共同監督が担当していて、私はどちらかというとレールを引く役割を担っています。脚本を書いて、絵コンテも一部手掛けますが、その後は八木監督にバトンタッチして、現場の指揮も彼が中心です。


 ですから、私自身は「アニメーションを作っている」感覚は、あまり強くありません。もちろん映画作りの一員として中には入っていますが、アニメーションならではの細かな作業や現場の動きは、八木監督が中心となって進めています。私はどちらかというと、いろんな人が働ける環境、インフラを整えることに注力してきました。私にとっては、映像が実写かアニメかという違いだけで、映画作りの本質は変わらないと感じています。


(河嶌太郎、アイティメディア今野大一)



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