「え、これ本当にあったこと!?」“殺人教師”事件の真相を描く作品に衝撃。43歳俳優の“集大成”

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2025年06月29日 09:20  女子SPA!

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©2007 福田ますみ/新潮社 ©2025「でっちあげ」製作委員会
 映画『でっちあげ 〜殺人教師と呼ばれた男』が2025年6月27日より公開されている。

 おそらく本作には、多くの人が「実話を元にしていることが信じられない」という感想を持つだろう。

◆「リアリティゼロの下手な小説」とまで言われたが……

 何しろ、原作のルポルタージュ『でっちあげ―福岡「殺人教師」事件の真相―』を執筆した福田ますみ氏は、読者から「よくこんなリアリティゼロの下手な小説を書くな。いくら小説だからって、もう少し現実にありそうなストーリーを考えろよ。えっ、これほんとうにあったこと? マジか!」という感想が寄せられたことを明かしている(プレス資料より)。

 今回の映画では、映像作品だからこその「凄惨な光景」が続くため、より良い意味で「あり得ない」気持ちが強まる、あるいは後述する「一方的な怒りと嫌悪」という「バイアス」も知ることになるだろう。

 また、見る前の注意点として、「児童への虐待、それに伴う出血の描写がみられる」という理由でのPG12指定(小学生には助言・指導が必要)のレーティングがある。そして、意図的に強いストレスを観客に与えるタイプの作品であると同時に、エンターテインメントとして「のめり込んで見られる」面白さと、「下手なホラーよりもホラー」な恐ろしさがあることも明言しておきたい。

 それ以外では予備知識を必要としない、むしろ何も知らずに見てこそ良い意味での衝撃が強まるタイプの内容でもあるため、これ以上情報を入れたくない人は先に劇場へ駆けつけてほしい。それでも、決定的なネタバレにならない範囲で内容を記していこう。

◆児童への差別発言、暴力、果ては自殺強要までもが描かれる

 物語は柴咲コウ演じる「母親の証言」から始まる。綾野剛演じる教師は、家庭訪問に訪れた際に、曾祖父がアメリカ人のため髪に赤みがかかっている児童に対して「穢(けが)れた血が混じっている」といった一方的な言説を展開する。

 さらに、教師は児童に教室で「片付けまでの10カウント」を強要し、その10秒以内に片づけられないとランドセルをゴミ箱に捨て、さらに罰として「どの“刑”がいいか」を選ばせた後に頭を殴るなどの体罰を加えた、さらには「死に方、教えてやろうか」と恫喝もしたのだと、母親は主張する。

 つまりは、教師は児童への差別発言、暴力、果ては自殺強要までもしたというのだ。主演の綾野剛の「ヘラヘラとした笑顔」に嫌悪感を強く抱く上に、暴力描写に定評のある三池崇史監督の演出も「効いて」いる。いじめという言葉では到底足りない光景の連続に、目を覆いたくなる人もいるだろう。

 そして、母親からその主張を聞いた週刊誌の記者は、教師の「実名報道」に踏み切る。日本で初めて教師による児童への虐めが認定された事件として、世論を巻き込んで「550人もの大弁護団」が結成され、教諭側が圧倒的不利な民事訴訟へと発展する。これまで教師の言動を映像として見ていたこの映画の観客にも、それが「当然」と思わせるほどの映像のパワーがあった。

◆心優しい教師が底なしの絶望へと追いやられる

 だが、本作の物語で主体となるのは、タイトルが示すように「殺人教師と呼ばれた男」が、すべてを事実無根の「でっちあげ」だとする主張だ。そして、教師が序盤の母親の証言から一転して、心優しい人物として描かれるという「ギャップ」も含めて驚けるだろう。

 その教師は校長から、保護者への「形だけの謝罪」を要求され、その気弱な性格から嫌々ながらも従ってしまう。しかし、事態は収束するどころか、マスコミの一方的な報道で世間が焚き付けられ、教師は誹謗中傷の的になり、停職も余儀なくされ、日常も人生も破壊されるという、底なしの絶望へと追いやられてしまうのだ。

 その絶望の先で、教師は劇中で「最大の悪手」と呼ばれるほどの、取り返しのつかない行動にも出てしまう。その痛ましさが伝わるのはもちろん、序盤ではあれほど醜悪に見えていたはずの教師に、心から同情できるようになっているのは、やはり綾野剛の演技力のたまものだ。クズな役から善良な役まで演じ分けてきた、これまでの綾野剛の集大成といってもいい。

◆強い言葉や映像があっても、客観的な視点や考えを失ってはらない

 だが、教師がなんとか見つけ出した弁護士は、母親の主張について「リアリティーに欠けている」と指摘する。観客もまた、一連のシーンで気づくだろう。自分たちもまた、教師への「一方的な怒りと嫌悪」という「バイアス」がかかっていたということを。

 例えば、冒頭の凄惨な光景にしても「こんな差別発言を母親の目の前で堂々と言ったり、児童がいる場で平然と暴力を振るえるだろうか」など、「さすがにこんなことは考えづらい」と思えるものでもあるのだから。

 その後の法廷劇では、母親の主張に論理的な矛盾や綻(ほころ)びがあることを突きつけていく。その様は「圧倒的な不利を覆す」エンターテインメントとして抜群に面白い以上に、母親が「何がしたくてこんなウソを並べ立てるのか」が不可解で、柴咲コウの「非人間的」ともいえる表情も相まって、心底恐ろしくもなる。

 序盤の暴力的な描写ばかりに目を奪われているばかりでは、そうした論理的な矛盾や綻びには気づきにくい。言葉はもちろん映像は、見る人や聞く人の心に強く作用するからこそ、客観的な視点や考えは失ってはならないと再認識できる構造があり、そこにこそ映像化の意義がある。

◆誰もが被害者にも加害者にもなりうる

 序盤は殺人教師、それ以降は気弱で心優しい教師と、主人公の印象が180度変わる作品であり、だからこそのエンタメ性と、一方の主張を「正義」だと決めつけるという問題提起を両立している。シンプルともいえる構造ではあるが、他にも考えさせられることがある。

 たとえば、教師にも「暴力の痛みを知ってもらうために児童を軽く叩いた」ことがあったため、完全に体罰を否定できなかったところもある。そうした「負い目」が世間からは拡大解釈されてしまったり、自身の主張の正当性を完全には肯定できずに苦しむ……というのも、この世のさまざまな事象でありうる「落とし穴」ではないか。

 また、ここまでの状況を作り出した、亀梨和也演じる週刊誌の記者は、一見すると冷静に物事を見つめているようでもあるが、彼は彼で「糾弾する」ことが目的化するあまり、それ以外の重要な視点を意識的にせよ無意識的にせよ「排除」してしまっているようにも思える。

 彼は彼で「ごく普通の人」でもあり、同じような振る舞いをしないと、自信を持って言える人は少ないだろう。

 さらに、絵に描いたような「ことなかれ主義」の校長が、「現実に確実にいる」のは言うまでもない。

 総じて、この『でっちあげ 〜殺人教師と呼ばれた男』は「誰もが被害者にも加害者にもなりうる」恐ろしさを描いている作品と言っていい。

 この信じられない出来事は現実にあり、同様の問題に巻き込まれる可能性がないとはいえない。何よりマスコミの報道やSNSでの言説を盲目的に信じて、それ以外の客観的な視点を忘れ、はっきりとした証拠も確かめないまま、誰かを糾弾、さらに誹謗中傷してしまうというのは、日常的にすらあり得ることだ。

 ポスターのキャッチコピーにもある「なぜ、それを信じますか?」を、どんな事象でも常に問いかけるようにしたい。そんなことを再認識できるだろう。

<文/ヒナタカ>

【ヒナタカ】
WEB媒体「All About ニュース」「ねとらぼ」「CINEMAS+」、紙媒体『月刊総務』などで記事を執筆中の映画ライター。Xアカウント:@HinatakaJeF

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