イギリスの名伯楽“バリー・ヒルズ” 半世紀以上の歩みを振り返る

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2025年07月02日 21:00  netkeiba

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▲合田直弘が海外競馬の「今」を詳しく解説!(c)netkeiba
【合田直弘(海外競馬評論家)=コラム『世界の競馬』】

◆英国における通算勝利数は3000勝超

 20世紀後半から今世紀序盤にかけて、トップトレーナーとして活躍したバリントン・ウィリアムズ・ヒルズさん(通称バリー・ヒルズ)が、6月29日に亡くなった。享年88歳だった。

 トム・リメル厩舎のヘッドラッドを務めていたビル・ヒルズの子息として、1937年4月2日に生まれたのがバリー・ヒルズだ。

 15歳だった1952年6月に騎手デビュー。1957年まで騎乗したものの、足掛け6年で8勝しかあげることが出来ず、騎手としては成功することが出来なかった。

 1959年から10年ほど、ニューマーケットを拠点とするジョン・オクスレイ厩舎で、トラベリング・ヘッドラッドとして従事。独立し、ランボーンを拠点に自らの厩舎を立ち上げたのは、32歳となった1969年の春だった。エミー・ジョンソン騎手が騎乗したラドルチェヴィータが、1969年4月18日にサースク競馬場であげた勝利が、バリー・ヒルズ厩舎としての初勝利となった。

 調教師生活のほとんどの時代を、ランボーンで過ごしたのがバリー・ヒルズだ。英国における馬の街と言えばニューマーケットで、20世紀後半、英国でリーディングトレーナーの座を争っていたのは、ノエル・マーレス、ヘンリー・セシル、マイケル・スタウトといった、ニューマーケットを拠点とした調教師たちだった。そうしたビッグネームたちに、ランボーンをベースに戦いを挑んでいったのが、バリー・ヒルズだったのだ。

 1971年、アワーミラージュで、当時は1400m戦だったロンシャンのサラマンドル賞を制したのがG1初制覇。そして、バリー・ヒルズのもとから歴史的名馬ラインゴールドが現れたのが、1973年のことだった。日本で種牡馬として大成功したファバージが、日本に導入される前に欧州に残してきた産駒がラインゴールドだ。3歳時には、G1サンクルー大賞やG2ダンテSに勝ち、G1英ダービーでもロベルトの短アタマ差2着に好走した同馬。本格化したのは4歳時で、この年は7戦し、G1ガネー賞、前年に続く連覇を果たしたG1サンクルー大賞、そして引退レースとなったG1凱旋門賞を制し、欧州古馬チャンピオンに選ばれている。

 そのラインゴールドも、G1ゴールドC勝ち馬ギルドランらを出した後、11歳となった1980年から日本で供用。GI日本ダービー3着馬フジノフウウンらを送り出した。

 バリー・ヒルズ調教師は、エンストンスパークで1978年の1000ギニーを、タップオンウッドで1979年の2000ギニーを、ムーナクスで1994年のセントレジャーSを、ハーフドで2004年の2000ギニーを、ガナーティで2009年の1000ギニーを制覇と、英国3歳クラシックを5勝。ラインゴールドで挑み短アタマ差の2着だった1973年以外にも、ハワイアンサウンドで1979年の英ダービー2着、グレシアルストームで1988年の英ダービー2着、ブルースタックで1990年の英ダービー2着と、英ダービー2着は4回あった。だが、ダービー制覇には届かず、したがって3歳牡馬クラシック完全制覇は果たせなかった。

 平地馬だけでなく、障害馬も手掛けたのがバリー・ヒルズで、1992年にはノマディックウェイで、チェルトナムフェスティバルのステイヤーズハードルを制している。

 咽頭がんと診断された2005年、バリー・ヒルズは厩舎を長男のジョン・ヒルズに譲り、自らは現役を退いた。ところが、そのジョンが2014年、ガンのため53歳で早世。自身は幸いにして健康を取り戻しており、なんと77歳にして厩舎の陣頭指揮に立つことになった。

 また、バリー・ヒルズと言えば、双子の騎手マイケル・ヒルズとリチャード・ヒルズの父としても、よく知られていた。

 英国における通算勝利数は、平地、障害を合わせて3181勝。2011年には、競馬界で果たしてきた長年の功績をたたえられ、カルティエ賞特別賞を受賞している。合掌。

(文=合田直弘)

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