サッカー日本代表のユースがアジアの頂点を目指した韓国・水原での戦い 29年前は当時高校生の中村俊輔も奮闘

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2025年07月15日 07:10  webスポルティーバ

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連載第58回 
サッカー観戦7500試合超! 後藤健生の「来た、観た、蹴った」

 現場観戦7500試合を達成したベテランサッカージャーナリストの後藤健生氏が、豊富な取材経験からサッカーの歴史、文化、エピソードを綴ります。

 今回は韓国・水原を拠点にE-1サッカー選手権を取材している後藤氏が、29年前の水原で取材したアジアユース選手権の日本の戦いぶりを振り返ります。

【様変わりしたE-1選手権に隔世の感】

 現在、韓国で開催されているE-1サッカー選手権。日韓W杯が開かれた2002年に結成された東アジアサッカー連盟(EAFF)主催で2003年に第1回大会が行なわれ、今大会が10回目。女子の大会は2005年から実施されている。

 第1回大会が開催された当時、日本にとって韓国はまさに最大のライバルだった。なにしろ、韓国は2002年W杯でベスト4に進出していたのだ。

 ところで、ご承知のようにこの大会には(国際Aマッチデーではないため)「海外組」が招集できない。そこで、日本も韓国も国内リーグ選抜チームが代表として出場している。ただ、日本はすべてJリーガーだが、韓国にはJリーグでプレーしている選手が3人いるし、香港代表にも中国スーパーリーグで活躍している選手が数人入っている(中国のクラブが招集に応じなかった例もあるらしい)。

 そのため、日本代表には遠藤航や三笘薫、久保建英といった主力組がいないし、韓国代表も孫興民(ソン・フンミン)や李康仁(イ・ガンイン)といった人気選手が不在。そのため韓国国内の関心もいまひとつで、韓国代表の試合でも観客数は4000人から5000人台で空席が目立っている。

 2003年に第1回大会が行なわれた当時は欧州でプレーする日本人選手などほんの数人だったが、今では男女とも代表選手の大半が海外組というのだから、まさに隔世の感としか言いようがない。

 フルメンバーが出場できない現在の状況を考えると、人気上昇は見込めそうもない。それなら、大会のあり方を再検討したほうがいいのかもしれない(たとえば、五輪を目指すチームの強化のための大会にするとか......)。

【29年前、水原でアジアユースを取材】

 さて、今年の第10回大会。男子の試合は龍仁(ヨンイン)市、女子の試合は水原(スウォン)市と華城(ファソン)市が会場となっている。いずれも首都ソウルの南40〜50キロほどのところにある町だが、古い歴史を持つのは水原だ。京義道(キョンギド/「道」は日本の「県」にあたる自治体)の道庁所在地で、18世紀に旧市街を囲むように作られた城壁(華城)が世界遺産にも登録されている。

 そこで、僕は3都市の中間に位置する水原の安ホテルに泊まっている。

 水原は観光するところも多いし、有名な牛カルビのレストランもたくさんあるからだ。しかも、女子の試合会場のW杯競技場まで徒歩わずか10分という絶好のロケーション。

 僕はこれまでにも何度も水原を訪れている。

 2007年のU−17W杯(柿谷曜一朗などが出場)や2017年のU−20W杯(堂安律、冨安健洋などが出場)の会場でもあったが、印象深いのは初めて水原を訪れた第29回アジアユース選手権大会(現U−20アジアカップ)。1996年のことだ。

 翌年、マレーシアで開催されるワールドユース選手権(現U−20W杯)の予選を兼ねて行なわれた大会で、10カ国のU−19代表が出場して優勝を争った。

 大会は5カ国ずつ2組に分かれてグループリーグが行なわれ、各組上位2チームが世界への切符を獲得。4チームで準決勝、決勝を行なって優勝を決めた。

 韓国が出場するグループAの会場は、ソウルにあった東大門(トンデムン)運動場。

 日本統治時代の1925年に建設されたスタジアムでソウルの繁華街のひとつ、東大門地区にあり、狭い敷地内に陸上競技場(サッカー場)、野球場、体育館、さらにスポーツ用品店、食堂などが犇(ひし)めくように並んでいた。

 東大門運動場は2007年に閉鎖され、現在は東大門歴史文化公園となっており、一角に東大門運動場記念館(スポーツ博物館)が設けられ、さらに"土地の記憶"を残すためにスタジアムの照明塔が保存されている。

 日本はグループBで、その会場が水原だった。

 W杯競技場が建設される前だから、古い総合運動場が会場だった(現在、W杯競技場は水原三星ブルーウイングス、総合運動場は水原FCの本拠地として使われているが、かつての強豪ブルーウイングスは現在、Kリーグ2に降格してしまっている)。

 ソウルと水原の両会場の試合を観戦するために、僕は地下鉄・東大門駅近くに泊まった。東大門駅から地下鉄1号線に乗れば、そのまま乗り換えなし、約1時間で水原に行けるからだ。

 最初は水原駅から総合運動場までバスで行ったのだが、水原のひとつ手前の華西(ファソ)駅で降りれば総合運動場まで歩いて行けることがわかったので、2回目からは華西駅を利用した。

 ただ、当時の華西はとても小さな駅で、スタジアムまで約2キロの道は両側が水田で、夜遅く試合が終わってから駅までの道はとても暗くて、寂しいものだった。しかも、10月だというのに、あの時の韓国はとても寒くて体の芯まで冷えてしまった。華西駅前にポツンと一軒のマントゥ(水餃子)屋があるのを見つけ、そこで食べた熱々のマントゥの美味しさは今でも忘れられない。

 29年が経過して華西駅周辺はすっかり開発され、今では巨大なショッピングモールが建設され、その中にある「ピョルマダン(星の庭)図書館」は有名な観光スポットになっている。

【日本は豪華メンバーもアジアの頂点に立てず】

 さて、1996年の大会で日本は2大会連続のワールドユース出場を目指していた(前回のアジアユースで日本は中田英寿や松田直樹などを擁して準優勝。初めてアジア予選を突破してワールドユースに出場した)。

 そして、2戦目の中国戦こそ落としたものの、シリア、カタール、インドに勝利した日本はグループ2位となり、見事に2大会連続のワールドユース出場を決めた。

 決勝トーナメントでは、準決勝でグループA首位の韓国と対戦した。当時の日本にとって韓国は格上の存在だ。しかも、韓国のほうが休養日が1日多く、日本にとって不利なスケジュールだった。

 日本代表のメンバーは、今から考えるとかなり豪華だった。現在、指導者など第一線で活躍している選手たちばかりだからだ。たとえば、韓国戦の先発は下記のとおりだ。( )内は現職である。

 小針清允(南葛SCコーチ)、戸田和幸(解説者)、宮本恒靖(JFA会長)、城定信次(浦和レッズU11コーチ)、明神智和(ガンバ大阪コーチ)、廣山望(U−17日本代表監督)、柳沢敦(鹿島アントラーズコーチ)、山口智(湘南ベルマーレ監督)、古賀正紘(湘南コーチ)、吉田孝行(ヴィッセル神戸監督)、中村俊輔(横浜FCコーチ)。監督は山本昌邦(JFAナショナルチームダイレクター)だった。

 日本サッカー界のレジェンドのひとり、中村は当時18歳、桐光学園高校の3年生だった。当時から、圧倒的なテクニックを誇っていたが、とても線が細い選手だったので「フィジカル的にプロでもやっていけるのかなぁ?」と心配していたものだ。

 その中村は左サイドからゲームを作った。そして、左サイドバックの城定はタッチライン際を駆け上がるばかりでなく、今で言う「アンダーラップ」のような動きも見せるクレバーな選手だった。一方、右サイドは廣山が打開した。

 日本は前半からいいプレーを見せ、11分には左CKからの跳ね返りを中村がボレーで狙うなど前半は一進一退。さらに後半に入ると韓国の動きが落ちて、日本のプレスが効果的になる。しかし、日本は最後までゴールを奪うことができず、79分に右からのクロスを梁鉉正(ヤン・ヒョンジョン)に決められ、0対1で敗れて3位決定戦に回ることになった。

 なお、この時の韓国チームには、のちに守備的MFとして代表でも活躍し、ヴィッセル神戸などでもプレーした金南一(キム・ナミル)がいた。

 日本は3位決定戦ではアラブ首長国連邦(UAE)と対戦。吉田が2ゴールを決めたものの、2対2のままPK戦に突入して3対4で敗れ、4位に終わった。

 あれだけの豪華メンバーが揃っていた日本だったが、まだまだアジアの頂点に立つことは難しい。そんな時代だったのである。もっとも、U−20アジアカップではその後も1度しか頂点に立ったことがないのではあるが......。

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