
『スーパーマン』(7月11日公開)
1938年に発行されたコミックに始まり、何度も映画化されてきたアメコミヒーローの原点をジェームズ・ガン監督が新たに映画化。
いきなり、戦いに敗れ、傷だらけになったスーパーマン(デビッド・コレンスウェット)が映る。その後も仇敵レックス・ルーサー(ニコラス・ホルト)の計略によって立場を失い、正義や自身の役割について葛藤し悩む姿を映し、今の時代での正義やヒーローの存在価値を問うような描き方をしている。それ故、1979年版のようにスーパーマンの活躍を見ながらカタルシスを覚えることも少ない。
そこには、世界各地で起きている紛争が一向に解決しないという現実の前では、もはやアメリカ国旗を背負って笑顔で空を飛ぶスーパーマンを素直にたたえられないというジレンマが見え隠れする。つまりはこのスーパーマンはアメリカが抱える葛藤を反映しているのだ。
また、ジョン・ウィリアムズ作曲の79年版のテーマ曲を断片的に流したのも、昔のような“正調スーパーマン”にしたいのにできない作り手の迷いを象徴しているように思えた。
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『ストレンジ・ダーリン』(11日公開)

ある男女の出会いが予測不能な展開へと突き進んでいく様子を、巧みな構成で描いたスリラー映画。監督・脚本はJT・モルナー。
冒頭で6章立てであることが明示されるが、唐突に3章から始まる。そして銃を持った男に追われる女が映るが、これがすでにミスリードの始まり。
この後、5章、1章、4章、2章、6章とあえて時系列を交錯させた予想外の展開を見せられながら、思わず「そうくるか!」となった。これは編集の妙味によるもの。
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時系列の交錯という点では、クエンティン・タランティーノ監督の『パルプ・フィクション』(94)やクリストファー・ノーラン監督の『メメント』(00)を想起させるが、それらとはまた一味違った面白さがある。”チャプター・ツイスト・スリラー"とはよく名付けたものだ。
また、35ミリフィルムで撮影されたざらざらとした質感、最近では珍しいたばこの火や煙の強調、赤を基調とした印象的な色遣いなどに、1970年代のニューシネマ的な味わいもある。
『「桐島です」』(4日公開)

1970年代に起こった連続企業爆破事件の指名手配犯で、約半世紀におよぶ逃亡生活の末に病死した桐島聡の人生を高橋伴明監督が映画化。
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桐島が逃亡中に何を考えどういう生活を送っていたのかは想像するしかない。だから当然、梶原阿貴と高橋監督による脚本に書かれたフィクションの部分がこの映画の大半を占める。
また、桐島は逃げ切ったのに、なぜ最期に本名を名乗ったのかという謎についての解釈も示さない。それについても見る側の想像に任せている。つまり桐島の人物像や行動を説明するのではなく想像させるところにこの映画の魅力があるのだ。
桐島を演じた毎熊克哉は高橋監督の映画の魅力について「ドライに淡々と進んでいって、そのどこかにロマンが見え隠れするところ」だと語るが、確かに本作には、桐島とは世代的に近い高橋監督の桐島への感傷や共感が見え隠れするところがある。その意味では、70年代のある青春像の果てを描いた映画だと言えるのかもしれない。
『生きがい IKIGAI』(11日公開)

演出家の宮本亞門が30年ぶりにメガホンを取り、能登半島地震と豪雨を経た人々の再生と希望を描いたショートフィルム。
2024年の元日に発生した能登半島地震で甚大な被害を受け、さらに8カ月後の豪雨によって2度目の災害に見舞われた能登で、ボランティア活動に参加した宮本が復興支援を目的に製作。収益の一部は能登復興のために寄付される。
主演は石川県出身の鹿賀丈史。土砂災害で家を失い、避難所にもなじめず、崩壊した自宅の一角で孤独に暮らす老人を演じた。彼の心の変化が本作の見どころだ。
また本作のメイキング撮影から生まれた手塚旬子監督のドキュメンタリー『能登の声 The Voice of NOTO』が併映される。被災地のことを決して忘れてはならない。被災者の生活や心情を映画を通して知らしめるという意味では、映画の効用を示す新たな試みとして注目に値する。
くしくも2020年7月の熊本豪雨による水害の痕に苦しむ人吉球磨地域の人々の姿を描いた『囁きの河』も同日に公開された。
(田中雄二)