
私が語る「日本サッカー、あの事件の真相」第29回
自らの信念を貫いた攻撃的サイドバックの数奇なサッカー人生(1)
超攻撃的サイドバック――。
名良橋晃は現役時代、そう呼ばれていた。
1993年にJリーグが開幕。同年、JSL(日本サッカーリーグ)のフジタでプレーしていた名良橋はサイドバックながらアシスト王に輝く活躍を見せ、チームの優勝に貢献した。翌年、ベルマーレ平塚(現湘南ベルマーレ)と改称したチームはJリーグに昇格。同シーズンでも名良橋は、左サイドバックの岩本輝雄とともに攻撃的なチームの象徴的な選手になった。
その活躍ぶりに目をつけたのが、「ドーハの悲劇」のあと、日本代表の指揮官となったパウロ・ロベルト・ファルカンだ。1994年9月、名良橋は広島アジア大会に臨む日本代表に招集され、壮行試合のオーストラリア戦で途中出場。出場時間は15分程度だったが、憧れの舞台に立つことができた喜びを噛みしめた。
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「僕は、ユース(1991年ワールドユース選手権ポルトガル大会)、五輪(1992年バルセロナ五輪)の予選でもプレーさせてもらったんですけど、ともにアジアでは勝てなくて、すごく悔しい思いをしました。この(代表に招集された)前年には『ドーハの悲劇』を見て、『次は自分たちが(1998年フランスW杯に)行くんだ』と思っていたのですが、代表に呼ばれて試合に出たことで、その気持ちが一段と強くなりました」
当時の日本サッカーは大きな盛り上がりを見せていた。1993年5月にJリーグが開幕し、その年の10月にはアメリカW杯アジア最終予選で初のW杯出場へあと一歩まで迫った。最終戦となるイラク戦のロスタイムに同点弾を叩き込まれてW杯出場という悲願は成就することはできなかったが、三浦知良(カズ)やラモス瑠偉、柱谷哲二ら日本代表が一丸となって戦っていた姿に人々が熱狂。サッカー人気はさらに加速した。
そうしたなか、日本代表は元ブラジル代表のファルカンが率いて、1998年フランスW杯出場という目標に向けてスタート。多大な関心を集めていた広島アジア大会は、指揮官ファルカンの最初の"中間試験"といった位置づけだった。
だが、日本は準々決勝で宿敵・韓国に逆転負けを喫し、早々に姿を消した。
名良橋は同大会での出番はなかったが、所属するベルマーレのチームメイト、名塚善寛と岩本がレギュラーとして出場。その姿をベンチから見守っていた。
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「名塚さんとテル(岩本)はすごい重圧のなかでプレーしていたんだなというのは、よくわかりました。特にテルは10番のプレッシャーが相当あったと思います。
一方で、僕自身はアジア大会でレギュラーになることを強く意識していたので、試合に絡めなかったことが本当に悔しかった。今後、クラブに戻って成長する姿を見せていかないとレギュラーはおろか、代表にも選ばれなくなるという危機感を覚えました」
アジア大会の結果を受けてファルカンが解任され、後任には加茂周が就任した。チームがシャフルされたが、1995年のインターコンチネンタル杯、ダイナスティ杯を経たあと、名良橋は3バックの右ウインバックでレギュラーを獲得。左ウイングバックの相馬直樹とともに"不動"の存在になりつつあった。
ところが、ある試合の敗戦で名良橋は代表での居場所を失った。
「その日のことは、今でもよく覚えています。(1995年9月に行なわれた親善試合の)パラグアイ戦で、そのときは4バックだったんですが、試合は完敗。(右サイドバックに入った)自分のパフォーマンスもよくなくて、途中交代したんです。
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翌月には(親善試合の)サウジアラビア戦があったんですけど、『代表に呼ばれるかなぁ、どうかなぁ......』と思っていたら、結局呼ばれなかった。そこからですね、代表から外れていったのは......」
そうした状況はある意味、「なるべくして、そうなった」と名良橋は感じていた。
「(1995年の)そのシーズンは、(所属の)ベルマーレも監督交代などで揺れていて、結果が出ていなかったんです。そういうなかで、自分のパフォーマンスも落ちてきたというのはすごく感じていました。このままいくと、代表から外れたままになってしまう。ワールドカップにも行けない。そういう不安と危機感でいっぱいでした」
名良橋が外れて以降、代表の右サイドバックには柳本啓成が入り、左の相馬とともに最終ラインを固めていった。
翌1996年もベルマーレは低迷し、11位に終わった。名良橋はシーズン途中から移籍について考えていた。
「1996年は、日本代表が(キリン杯で)ユーゴスラビアやメキシコに勝ったりして調子がよかった。(自分は)その代表に戻るためにはどうしたらいいのかっていうのをすごく考えていました。
やっぱりW杯に出たいですし、代表でプレーしたい。うまくなりたい。そのひとつの答えとして、環境を変えて、ステップアップしていくことが大事だと思ったのです。自分は(1990年から)6年間、ベルマーレでプレーしていましたし、そろそろ動く時期かなと。
移籍の対象となるチームは、鹿島アントラーズでした。(当時アントラーズに所属していた)ブラジル代表のジョルジーニョは憧れの選手でしたし、彼と同じチームになって、いろんなことを吸収したい、と。彼はアントラーズではボランチだったので、右サイドバックで勝負できるかもしれないとも思ったんです」
1996年シーズンが終了し、名良橋はベルマーレ退団を決めた。だが、アントラーズとの交渉は合意には至っていなかった。年が明け、アントラーズはブラジルキャンプに出発したが、その時点でも移籍は決まらなかった。名良橋は日々、「どうなってしまうのか......」と不安が募るばかりだった。
それでも、最終的にクラブ間で移籍話が合意。名良橋のアントラーズ入団が決まった。しかしながら、代表からは依然として声がかからなかった。
「代表復帰は5月の(親善試合)韓国戦の頃にあるんじゃないかって、僕の耳にも入ってきたんですけど、結局呼ばれなかった。その試合で、ヒデ(中田英寿)が鮮烈なデビューを見せて、そこから代表の中心選手になっていった。待っているだけじゃなく、代表復帰への道筋も自分で考えてやっていかないといけないと思いました」
その道筋をつけるために、名良橋がテコ入れしたのが守備だった。
「ベルマーレでは前に行かないとニカノール(・デ・カルバーリョ)監督に怒られるので(攻撃的に)行くしかなかったんですけど、世界を見ると攻撃だけ、守備だけ、じゃダメ。(1995年6月の)アンブロ杯でブラジルとやった時、ロベルト・カルロスが攻撃はもちろん、守備もすごくて、『なんなんだ、こいつは』と衝撃を受けたんです。
世界で戦うには守れないとダメと思い、アントラーズに入ってから秋田(豊)さんから細かくポジショニングについて学びました。本田(泰人)さんからはバランスについてよく言われ、前に行く時は左とのバランスを考えて、タイミングよく上がることを意識していました。攻守にバランスの取れた選手になることでよりよいパフォーマンスを発揮し、それが代表にもつながると思ったのです」
1997年3月から始まったフランスW杯アジア一次予選、オマーンラウンドでの日本代表の最終ラインは、井原正巳と小村徳男がセンターバックを務め、右が柳本、左が相馬だった。その後、センターバックは井原と秋田がコンビを組むようになっていく。
その最中、柳本が故障して戦列を離れると、アントラーズでの秋田、相馬らとの安定した守備が評価されたのだろう。一次予選の日本ラウンドを前にして、名良橋がおよそ1年8カ月ぶりに代表復帰を果たした。
「アジア一次予選は当初、自分が(代表に)呼ばれない悔しさもあって、日本の試合は見ていなかった。悔しいと、見たくなくなるんですよ。でも、一次予選の日本ラウンドの前に復帰できた。そのときはホッとしました。
(最終ラインには)チームメイトの秋田さんと相馬がいて、井原さんもめちゃくちゃやりやすかった。攻撃ではヒデがいたので、(3バックの)ウイングバックに入ったときには攻撃の比率が高くなって、自分の持ち味を生かせる状況でした。(予選では)チームの勝利に貢献して、フランス行きを勝ち獲りたいと強く思っていました」
一次予選を難なく突破して、いよいよ最終予選に挑むことになった。前回は出場6カ国によるセントラル開催(カタール・ドーハ)で行なわれた最終予選は、一次予選を勝ち抜いた10チームが2組に分かれて、各組2回戦総当たりのホーム&アウェー方式で行なわれることになった。
日本は、韓国、UAE、ウズベキスタン、カザフスタンと同組に。そこで首位となれば、文句なしでW杯の出場権を得ることができる。2位でも、もう一方の2位との第3代表決定戦に勝てば、W杯の出場切符を手にできるレギュラーションだった。
1997年9月7日、国立競技場。初戦の相手はウズベキスタンだった。
その日の国立競技場は、満員のファンが集結。名良橋は「雰囲気がすごかった」と、ゾクゾクするような興奮を覚えた。
結果は、6−3の勝利。日本は絶好のスタートを切った。
「3点取られましたけど、6点取って勝利。(最終予選へ)いい入りができました」
だが、アジアの壁はそう簡単に打ち破れるものではなかった。幸先のいいスタートを切って、日本中が初のW杯出場へ胸を膨らませていたが、すぐに現実を突きつけられることになる。アウェーのUAE戦を0−0と引き分けたあと、ホームの韓国戦を1−2で落とした。
「流れがおかしくなったのは、韓国に1−2と逆転負けしてからです。ただこのときは、負けてショックだったけど、『切り替えていこう』というポジティブなムードがまだ、チームにはあったんです。
でも、中央アジアに行って、カザフスタン戦で最後に追いつかれて、1−1で引き分けてから完全に流れが悪くなってしまった。結果がともなわない試合が続いて、その夜、加茂さんが解任されて......。最終予選の途中だったので、かなり驚きました」
その夜、選手たちは集まって、お互いの腹の底にたまっているものを吐き出した。そうして、名良橋もあらためて自らの気持ちを奮い立たせた。そこには、ベルマーレ時代に同僚だった小島伸幸の存在もあった。
「ノブさんはチーム最年長で、第3GKという立場で悔しい思いもあったと思うんですが、そういう振る舞いをいっさい見せず、縁の下の力持ちといった役割を全うしてくれていたんです。ノブさんのためにも、試合に出ている選手はもっと責任感を持ってプレーしないといけないと思いました」
加茂が代表監督を解任されたあと、コーチの岡田武史がチームの指揮を執った。しかし、チームは上向くことなく、続くアウェーのウズベキスタン戦、日本に戻ってからのUAE戦と、ともに引き分けた。
不甲斐ない結果が続いて、UAE戦後の国立競技場で一部サポーターが暴動を起こした。カズとサポーターとの間で一触即発の状態となり、チームバスがサポーターに取り囲まれて動けなくなった。
バスのなかにいた名良橋はこのとき、サッカーをやってきて初めて恐怖を感じたという。
それでも、名良橋が「ここからだとスイッチが入りました」と言う直後のアウェーの韓国戦を2−0と勝利。幸運なことに自力でグループ2位を得られる状況が復活し、最終戦のカザフスタン戦を5−1と圧勝して第3代表決定戦に進めることになった。
相手は、イランだった。
(つづく/文中敬称略)◆名良橋晃がフランスW杯で痛感した世界との差>>
名良橋 晃(ならはし・あきら)
1971年11月26日生まれ。千葉県出身。高校卒業後、ベルマーレ平塚(現湘南ベルマーレ)の前身となるJSLのフジタ入り。1994年にJリーグ昇格後も、チームの主軸として活躍。日本代表にも招集される。その後、日本代表への定着を目指して、1997年に鹿島アントラーズに移籍。1998年フランスW杯出場を果たす。鹿島でも攻撃的なサイドバックとして奮闘し、「常勝軍団」の一員として活躍した。2007年、古巣の湘南ベルマーレに移籍後、2008年2月に現役引退。国際Aマッチ出場38試合。現在はサッカー解説者、指導者として奔走している。