
私が語る「日本サッカー、あの事件の真相」第29回
自らの信念を貫いた攻撃的サイドバックの数奇なサッカー人生(2)
◆(1)名良橋晃が鹿島アントラーズに移籍した本当の理由>>
1997年11月16日、マレーシア・ジョホールバル。日本とイランによるフランスW杯アジア第3代表決定戦が行なわれた。
ピッチに出ていくと、名良橋晃はその光景に衝撃を受けた。
「第3国での試合でしたから、サポーターとかも少なくて、(スタンドは)ガランとしているんだろうな、と思っていたんです。それが、ピッチに出てみたらスタンドを埋め尽くした日本のサポーターがすごく盛り上げてくれて、いい雰囲気を作ってくれて。もうこれ以上ないモチベーションになりました」
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試合は、中山雅史のゴールで日本が先制するも、後半にイランが巻き返す。コダダド・アジジとアリ・ダエイのゴールで試合をひっくり返した。
逆転を許した日本は後半18分、監督の岡田武史が動く。三浦知良(カズ)と中山に代えて、城彰二と呂比須ワグナーを投入して反撃に出た。
「結構ギリギリの状態で戦っていて、それでも代えないだろうと思っていたカズさんとゴンさん(中山)を(岡田監督は)一気に代えたんです。思いきった、すごい決断だなって思いました」
徐々に流れを取り戻していった日本は後半31分、中田英寿のクロスを城がヘディングで合わせて同点に追いついた。名良橋も後ろからの声に押し出されるような形で高い位置を取り、日本はさらに攻撃的に出た。
「2−2になってから、モトさん(山口素弘)が『前に行け』って言ってくれたんです。モトさんは後ろに残っていて、自分の裏のスペースをケアしてくれて、(4バックから)ほとんど3バックみたいになっていました。
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僕が攻撃参加できたのは、モトさんのおかげでしたし、同点に追いつく前に相手のカウンターをモトさんが止めてくれたのもすごく大きかった。モトさんは目立たないですけど、気が利くプレーができる人で、代えの利かない選手。僕のなかでは、予選突破の陰のMVPだと思っています」
2−2の同点のまま、試合は延長戦に突入。最後は延長後半、中田のシュートのこぼれを岡野雅行が詰めて日本が3−2で勝利し、初のW杯出場を決めた。
「最後にオカちゃん(岡野)が決める前、ダエイの決定的なシュートがあってヒヤッとしました。そのあと、オカちゃんが決めてくれたんですけど、もうホッとしたという気持ちしかなかったです。
それまでにいろんなことがありましたし、精神的にもしんどかった。これで負けたら、次はオーストラリアとの試合(大陸間プレーオフ)になって、また戦わないといけない。もうサッカーはいいやって思うところもあったので、イラン戦に勝ってW杯出場が決まって本当によかった」
W杯出場を決めた試合のあと、中田がインタビューで「これからはJリーグをよろしくお願いします」と言った。名良橋も、Jリーグのためにも勝ててよかったと思ったという。
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「実際、これでもしイランに負けて、最終的にW杯に出られなかったら、『Jリーグはどうなってしまうんだろう』って思っていました。日本代表を強くするためにJリーグが生まれたのもあるので、フランス行きを決めることができて、サッカーに関わる人たち全員が(この結果に)ホッしたんじゃないかなと思います」
1998年、W杯イヤーを迎えると、日本代表のメンバー争いは熾烈を極めた。サッカー選手であれば、誰もが目指す大舞台。日本中が注目するなか、代表監督の岡田はともに10代の小野伸二と市川大祐をメンバー候補に抜擢した。
「イチ(市川)は、最大のライバルでした。現役高校生で『岡田さんの恋人』とか言われていたんですよ。若いし、スピードがあって、高さもあって、非常にクレバーな選手。僕とは違うタイプで、『これはヤバいな』と思いました。
でも、そういう存在が出てきてくれたおかげで、自分のパフォーマンスの質も上がったんです。やっぱり負けたくないですし、W杯に出るのは自分の夢でもあったので、この時期は無我夢中でサッカーをしていました」
最終的に指揮官の岡田は、最終予選を戦ったメンバーを軸に23名を選出。名良橋の最大のライバルである市川は落選した。ただ一方で、メンバー入り確実と思われたカズや北澤豪もW杯メンバーから外れた。
「(自分が)メンバーに選ばれてうれしかったですけど、カズさんの落選は衝撃が大きかったです。カズさんは世界でも知られている選手でしたし、いるだけで怖さを与えられる選手じゃないですか。それまで、日本のサッカーを引っ張ってくれた11番ですから、絶対に外さないと思っていたんですが......。
その際、岡田さんはすごいことをやるなと思ったのと同時に、カズさん、キーちゃん(北澤)が外れて、井原(正巳)さんにかかる重圧はすごく増すだろうな、とも思いました」
迎えたフランスW杯。初戦の相手は、アルゼンチンだった。
アルゼンチンについて事前にビデオで見た名良橋は、ガブリエル・バティストゥータ、アリエル・オルテガ、ディエゴ・シメオネなど個々の選手のレベルが高いのはもちろん、チームとしての強さも感じた。
「南米予選の試合とか、アルゼンチンの分析ビデオを見たんですけど、前からプレスをかけて、しかもその強度がめちゃくちゃ高いんです。これをどうやって剥がせばいいんだろうって考えたんですが......。結局、岡田さんが3バックにして対応しようと決めたんです」
アルゼンチンの強さを、ある意味で洗脳された状態で名良橋はピッチに立った。だが、実際に相対したアルゼンチンはビデオで研究したものとはまるで異なっていた。
「開始してすぐに、アルゼンチンは100%(の力で)来ていないなって思いました。日本にはボールを持たせるけど、アタッキングサードからは自由にやらせないよって感じで、そこからは厳しくくるんです。バティストゥータが1点取ってからは、特にそうでした。したたかなゲーム運びをされてしまいました」
名良橋の正面には、シメオネがいた。シメオネの前にはクラウディオ・ロペスがいて、そこは3バックの右を務める中西永輔が対応していた。
「シメオネはもともとボランチなので、(前へ)仕掛けるのではなく、全体のバランスを取っている感じだったので、そんなに怖さは感じなかったです。逆に、自分が前に行くことで相手の選手を(後方へ)ピン止めさせたいと思っていたんですが......」
失点は、そのシメオネが起点だった。彼が前線に出したパスが名波浩に当たって、こぼれ球をバティストゥータが鮮やかに決めた。
以降、名良橋が言うとおり、アルゼンチンは老獪な試合運びで日本の攻撃を封じて、そのまま逃げきった。日本は為す術なく、初戦を0−1で落とした。
「日本もアタッキングサードに入り込めましたし、その回数も何度かあったんですけど、その先の最後の質が足りなかった。フィニッシュの精度を含め、チームとしていかに点を取るかは、大会前からの課題でしたが、初戦であらためて(その課題を)突きつけられた感じになりました。
それに、強豪国の本当の強さを実感しました。自分たちは開幕からフルパワーでいきますけど、アルゼンチンは優勝までを逆算してプレーしているんだなっていうのは、試合中からわかりました。実際、アルゼンチンは100%(の力を)出さずに勝った。そのくらい力の差があったということです」
続くクロアチア戦は、負けるとグループリーグ敗退が決まってしまう重要なゲームとなった。気温30度を超える暑さのなか、名良橋が痛感させられたのは、自らのさらなる守備力の向上だった。
「Jリーグだと、自分の距離感でアプローチしていけばボールが取れるんですけど、クロアチア戦では相手のボールの持ち方を見て、自分の距離の詰め方でボールを取りに行っても取れないんです。うまく誘われるというか、アプローチに行っても簡単に剝がされてしまう。どういうタイミングで行かないといけないのか。開始早々から、そのことをすごく考えさせられました」
試合は消耗戦の体を成していたが、クロアチアは"省エネ"サッカーを実践。日本にボールを持たせて、カウンター狙いに徹していた。
反対に、日本はボールを保持して積極的に仕掛けた。前半34分には中山が決定機を迎えたが、相手GKに阻止されてゴールを奪うことができなかった。
膠着状態に見えたが、自分たちの戦略を貫いたクロアチアが日本の動きが鈍り始めた後半32分、カウンターからダボル・シュケルがゴールを決めて均衡を破った。
「クロアチアもアルゼンチン同様、試合巧者でした。暑さのなかで無理をせず、体力を温存しながら"ここぞ"というときに決めてくる。現にシュケルの決定力はすごいなと思いましたし、『これが世界だな』っていうのを思い知らされました。
事実、守っていてシュケルは怖かったです。対面にいたし、常にゴールを狙っていました。この大会、シュケルが得点になりましたけど、点が取れるストライカーがいることにも世界との差を感じました」
クロアチア相手に1点が遠かった日本。0−1で敗れて、グループリーグ敗退が決まった。
(つづく/文中敬称略)
名良橋 晃(ならはし・あきら)
1971年11月26日生まれ。千葉県出身。高校卒業後、ベルマーレ平塚(現湘南ベルマーレ)の前身となるJSLのフジタ入り。1994年にJリーグ昇格後も、チームの主軸として活躍。日本代表にも招集される。その後、日本代表への定着を目指して、1997年に鹿島アントラーズに移籍。1998年フランスW杯出場を果たす。鹿島でも攻撃的なサイドバックとして奮闘し、「常勝軍団」の一員として活躍した。2007年、古巣の湘南ベルマーレに移籍後、2008年2月に現役引退。国際Aマッチ出場38試合。現在はサッカー解説者、指導者として奔走している。