日航機墜落は85年「阪神優勝」に多大な影響 球団社長ら犠牲 吉田監督平常心保てず/寺尾で候

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2025年08月11日 19:00  日刊スポーツ

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日刊スポーツ

85年日本シリーズの阪神優勝で中埜社長の遺影が見守る中、祝勝会が始まった。中央は真弓

<寺尾で候>



日刊スポーツの名物編集委員、寺尾博和が幅広く語るコラム「寺尾で候」を随時お届けします。


   ◇   ◇   ◇


今年は航空史上最大の惨事だった日航機墜落から40年の節目にあたる。1985年(昭60)8月12日、午後6時56分頃、羽田空港を離陸した伊丹空港行きの日本航空123便が、群馬・御巣鷹の尾根に墜落した。


世界最悪の航空事故は、この年の「阪神優勝」にも多大な影響を及ぼした。時代とともに流されがちだが、先輩方から言い伝えられてきた貴重な事象。当時の監督だった吉田義男からもしつこいほど聞かされてきたから身が引き締まる。


お盆休みの帰省ラッシュで、ほぼ満席だった機内の乗客乗員520人が犠牲になった。国民的歌手・坂本九ら有名人とともに、阪神電鉄専務で、球団社長の中埜肇(なかの・はじむ)と常務・石田一雄が巻き込まれた。


平和台で中日に連勝したチームは空路上京、巨人戦(後楽園)を前に、夕方から若手と一部投手陣が神宮の室内練習場で汗を流した。蒸し暑い現場のテレビに、伊丹行きのJAL機が消息を絶ったという情報がテロップで流れた。


練習後の吉田は、都内の料亭で、野球部の臨時コーチを務めた新日鉄大分から本社重役に栄転した知人と4人で旧交を温めた。同じ時間、宿舎「サテライト後楽園」にはどんどん新聞記者が詰めかけて異様な雰囲気に包まれた。


ほとんどの選手が外出したが、携帯電話もない時代で連絡がつくはずはなかった。チーム付広報担当の本間勝がメディア対応し、日航機の搭乗者名簿に阪神関係者の名前が確認され、電鉄本社と確認中と説明している。


吉田に一報が伝わったのは2次会の六本木に向かうタイミングだ。OB会長・田宮謙次郎とすし屋で会食した銀座から宿舎に戻った広報部長・室山皓之助は「こちらから説明するまで選手には取材しないでほしい」と要請したがホテルロビーはごった返した。


吉田はいったん入店したが時間を置かず店を出ている。宿舎で緊急記者会見に臨んだのは、日付が変わった13日午前0時20分。中埜から最大限のバックアップを約束されていた監督は「信じられません…」といって二の句が継げなかった。


チーム5連勝のムードは吹っ飛んだ。球団トップの中埜の死亡が確認されたのは、4日後の16日夜だ。チームは13日から巨人、広島、大洋に6連敗。吉田はチームを預かる「監督」として平常心でふるまうつもりだったが、内心は違った。


「正直、私自身もなにをどうしていいかわからなかった。とても野球ができる気持ちではなかったかもしれません。中埜社長にはいつも激励されていましたし、つらかったです。マスコミからは、焦りだとか、空回りだとか厳しく指摘されましたわ」


“死のロード”と言われた長期遠征中で、掛布雅之から指名されて選手会長になった岡田彰布が、選手だけの決起集会を開いている。後で知らされた吉田は「岡田のリーダーシップに助けられた」と一丸に手応えをつかんだ。


組織のトップがぶれれば、チームもぶれる。監督の吉田は意を決し、腹をくくって「なにがなんでも勝たなあかん」と選手を奮い立たせるのだった。後で本人は求められるサイン色紙に勝負に徹するという意を込めて「徹」と添えるようになった。


21年ぶりのセ・リーグ優勝、球団初の日本一。今では信じられない悲惨な事故に遭遇しながらも見事に勝ちきった。時代がめまぐるしく変化しても、猛虎がたどりついた軌跡を、昭和の記憶としてとどめたい。 (敬称略)

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