ボーイング747の模型を見詰める三浦武彦さん。日航ジャンボ機墜落事故が起きた1985年に入社した=7月4日、東京都大田区 日航ジャンボ機墜落事故から12日で40年がたち、当時を知る日航社員は、定年後再雇用を含めて3.6%(517人)まで減少した。日航は残存機体、乗客の遺品を展示した安全啓発センターでの研修や慰霊登山を通じ、社員の安全教育を続けているが、後輩社員への記憶の継承が課題となっている。
1985年4月に日航に入社した三浦武彦さん(64)は今月5日、大阪・伊丹空港でグループ社員約200人を対象に、初めて事故の経験を語った。
新入社員として三浦さんが勤務していた伊丹空港には事故当夜、多くの遺族が集まり、混乱状態にあった。墜落機の搭乗者名簿を張り出すと、遺族から「これですべてですか」と何度も聞かれたが、「よく分かっていないんです」としか答えられなかった。
事故から1カ月ほどの間、旅客機で伊丹空港に到着したひつぎを遺族に引き渡した。最初は重かったひつぎが、時間がたつにつれ軽くなっていった。
「事故を受け止め切れない。忘れたい。封印したい」。感情を押し殺して仕事を続けたが、数年後に初めて御巣鷹の尾根に登ったとき「ちゃんと向き合った方がいい」という気持ちが芽生えた。
日航は2005年、運航トラブルを立て続けに起こし、安全対策を強化するために招かれた専門家は残存機体や遺品を社員教育に生かすよう提言した。「それまで逃げ回っていた自分を恥ずかしく思った。自分の経験を伝えていくべきだと初めて思った」。少しずつ、社内で事故の経験を話せるようになった。
長年にわたり社内の各部署を経験してきた三浦さんは、現状の社内風土にはまだ改善の余地があると感じている。「もっと相手に関心を持ち、意見を言い合える風土をつくらないと、安全の層は厚くなっていかない」―。来年5月に日航を離れるまで、後輩に伝えていきたいと思っている。