香淳皇后、戦禍案じた日々=戦争孤児に「心痛む」―実録全文を公表・宮内庁

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2025年10月09日 00:31  時事通信社

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時事通信社

香淳皇后(宮内庁提供)
 宮内庁は9日、昭和天皇の后、香淳皇后の97年の生涯を記した「香淳皇后実録」の全文を公表した。戦時下の皇居内での動静が克明に記され、終戦の日は住居を兼ねた防空施設「御文庫」で終日過ごし、ラジオで玉音放送を聞いたことが判明。戦後は名誉総裁を務めた日本赤十字社の行事などで、戦争への思いを重ねて述べていた。昭和天皇と激動の時代を歩んだ皇后の実像を知る上で貴重な手掛かりとなる。

 同庁は「近代日本の三代の皇后実録がそろい、皇后研究の素地ができた」としている。

 戦後は、1946年12月の日赤の通常総会、47年1月の名誉総裁推戴式などで戦争に言及。同年5月、日赤で行われた全国児童福祉大会では、子供たちの境遇に触れ、「戦災や引揚の、孤児や遺児の身の上を思えば、何とかして、此の可憐な子供たちを幸福にすることは、出来ないものかと心が痛みます」と心情を明かした。

 戦前や戦時中に、旧日本軍の幹部らと個別に面会していたことや、戦傷者のため包帯巻きをした日々などを詳述。専門家から説明を受ける進講を、法学者の穂積重遠からは1924〜50年と長期にわたって受けていた。

 結婚前では、1918年開設の「御学問所」の概要や、23年に新潟県滞在中に起きた関東大震災当時の動静を詳述。戦後は昭和天皇と共に、国体(現国民スポーツ大会)や全国植樹祭などで地方を巡り、初の海外旅行となった訪欧(71年)、訪米(75年)を経て、77年7月に那須御用邸で腰を痛めて以降、儀式で所作に滞りが生じるなど、高齢に伴う健康問題についても詳述されている。

 同庁は17年にわたる編さんで使った約1500件の資料のうち、結婚前の久邇宮家の文書や、御学問所の日誌、穂積家文書などを新出としている。

 全文約3800ページは、同庁ホームページで9日午前9時半に公開する。



 

 ◇香淳皇后

 1903(明治36)年3月6日、皇族の久邇宮邦彦(くにのみや・くによし)王、俔子(ちかこ)妃の長女として誕生。名前は良子(ながこ)。24(大正13)年1月26日に当時皇太子だった昭和天皇と結婚。上皇さま、常陸宮さまら2男5女をもうけた。

 26年12月、大正天皇の逝去に伴い昭和天皇が即位し、23歳で皇后となった。戦争の時代を経て、戦後は国体(現国民スポーツ大会)や全国植樹祭などに昭和天皇と出席。71年の訪欧、75年の訪米などで国際親善に貢献し、日本赤十字社の名誉総裁も務めた。

 89年1月、昭和天皇逝去で皇太后となり、2000年6月16日、老衰のため97歳で逝去。香淳皇后と追号された。7月25日、葬儀に当たる斂葬の儀が行われ、武蔵陵墓地(東京都八王子市)に埋葬された。 

香淳皇后の生涯を記録した「香淳皇后実録」(代表撮影)
香淳皇后の生涯を記録した「香淳皇后実録」(代表撮影)


静養先の那須御用邸で過ごす昭和天皇と香淳皇后=1985年8月、栃木県那須町
静養先の那須御用邸で過ごす昭和天皇と香淳皇后=1985年8月、栃木県那須町


1945年8月15日の香淳皇后実録の記述(代表撮影)
1945年8月15日の香淳皇后実録の記述(代表撮影)

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  • 今もYouTubeじゃ仲が悪いって言う動画で溢れ返っているが、嫁姑問題は旦那永遠の悩みの種。  とは言え、なんか身近に感じられるね。
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