
<ニッカンスポーツ・コム/芸能番記者コラム>
役者仲代達矢さんが92歳で亡くなった。今年5月、石川県七尾市の能登演劇堂での舞台「肝っ玉おっ母と子供たち」で取材したのが最後だった。上演前の大事な時間、楽屋で少し話を聞かせてもらった。本番前にもかかわらず、とても穏やかだった。「いいものを見せられると思います」と優しい笑みを見せていた。
24年元日の能登半島地震で劇場も被害を受けたため、本来の公演から約7カ月延期していた。復興公演と銘打っての上演だったが、あえて気負いは見せず「稽古がたっぷりできました」と話し、被災地に演劇が復活することを本当に喜んでいた。
ほろ車を引きながら、軍隊と一緒に戦場を渡り歩き商売をする女性を描いた物語。仲代さんは、かなしくもたくましく生きねばならぬ母を演じた。前日の通し稽古も取材していたが、本番はさらにすばらしかった。子供を思いながらも、気丈に、こっけいにふるまう主人公の、心の底の深い悲しみが胸に響いた。歌の場面もあって、今も音楽が思い出される。92歳という年齢はどこかに飛び、ただただ物語を堪能し、仲代さんの芝居に引き込まれた。
「肝っ玉−」の初演は88年。仲代さんに主人公である女役を勧めたのは、妻で劇作家、演出家の故宮崎恭子さん(ペンネーム隆巴=りゅう・ともえ)だという。仲代さんも最初はびっくりしたようだが、自身の母愛子さんを重ねて役作りをした。今年5〜6月の公演は再々演となった。
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仲代さんは、妻があってこその自分だったと、取材のたびに話していた。演出を務めた作品について話を聞いた時も「女房だったらどうするだろうな。演出家、役者を導いていくということにかけては天才的でした」と言った。カーテンコールでは、宮崎さんの写真が掲げられた。
仲代さんの葬儀は、都内にある無名塾で営まれた。無名塾は、仲代さんと宮崎さんが75年に立ち上げた。稽古場は「仲代劇堂」と呼ばれ、限定公演を行うこともある。
96年6月に亡くなった宮崎さんの通夜、葬儀も無名塾で営まれている。当時、通夜には勝新太郎さんら、吉永小百合らが参列、葬儀には中村歌右衛門さん、渡哲也さんらが参列した。宮崎さんのひつぎは、塾生がたたく和太鼓の音に送られて自宅を出た。
仲代さんの法名は修藝院釋照達(しゅうげいいんしゃくしょうたつ)、宮崎さんの法名は隆藝院釋浄華(りゅうげいいんしゃくじょうか)と、ともに「藝」の文字が入っている。無名塾を愛し、芸に生き、最後まで強いきずなで結ばれた2人だったんだなとあらためて感じた。【小林千穂】
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