1983年のインターナショナル鈴鹿500km自動車レースを戦ったトラストポルシェ956。藤田直廣とバーン・シュパンがドライブした。 モータースポーツの「歴史」に焦点を当てる老舗レース雑誌『Racing on』と、モータースポーツの「今」を切り取るオートスポーツwebがコラボしてお届けするweb版『Racing on』では、記憶に残る数々の名レーシングカー、ドライバーなどを紹介していきます。今回のテーマは1983年の全日本耐久選手権などを戦った『トラスト・ポルシェ956』です。
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1982年にグループC規定が正式に発布されると同時に、レースシーンへと登場し、グループCカーによる世界耐久選手権(WEC)、さらにル・マン24時間レースまでも制したポルシェ956。この956は、デビューの翌1983年よりカスタマーチームへのデリバリーが始まり、同年に日本へも上陸した。
その1983年に日本第一号のポルシェ956は、自動車のアフターパーツメーカーとしても知られるトラストのレーシングチームであり、当時副社長だった森脇基恭を中心としたノバ・エンジニアリングが走らせ、チームの陣頭指揮、車両メンテナンス等を行なった。
ノバは1982年のWECジャパンを見て、国内レースへの導入を希望したトラストの願いを叶えるかたちで、ドイツ・バイザッハのポルシェ本社と交渉の末、ポルシェ956を購入。1983年の全日本耐久選手権、富士ロングディスタンスシリーズを戦い始めた。
マシンが託されたのは藤田直廣と1982年のワークス・ポルシェ956を知るバーン・シュパンというふたりのドライバーだった。藤田、シュパン組のトラスト・ポルシェ956は、1983年の鈴鹿500kmレースでデビューレースを迎える。
すると全日本富士500km、全日本富士1000km、鈴鹿1000キロと負けなしの快進撃を披露。まだ生まれたての国産グループCカー勢との力の差をまざまざと見せつけたのだ。
同年10月にはワークス・ポルシェ956らが来襲するWECジャパンにもエントリー。このレースでは唯一ロングテールボディの956で戦ったものの、3位表彰台をゲット。
ワークス含む海外チーム勢は、よりダウンフォースを稼げるショートテール仕様を選んでいた。しかし、ノバは富士スピードウェイという勝手知ったるコース特性などを鑑みて、あえてロングテールカウルを選択。そんなノバの956は、並みいる海外プライベーター勢と戦い、見事撃破。ポルシェワークスを驚かせたのだった。
ノバ率いるトラスト・ポルシェ956はその後、全日本富士500マイルをも制し、全日本耐久選手権のタイトルを獲得。1984年以後もノバは、ニッポン最強のポルシェユーザーとして、日本の耐久レースシーンを牽引していくのであった。
[オートスポーツweb 2025年12月03日]