
2025年(令7)は日本の歴史上、最も愛された人物である、野球の長嶋茂雄さんが亡くなった年として人々の思いに刻まれるだろう。長嶋さんは6月3日に肺炎のため、89歳で逝った。東京6大学の立大で8本の本塁打記録を引っ提げて、58年(昭33)に巨人軍に入団。デビューの4打席4三振から、天覧ホームラン、V9、そして2度にわたって監督として指揮を執った。公私にわたる付き合いがあり、長嶋さんの公式イベントの司会も務めたタレントせんだみつお(78)が改めて悼んだ。
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せんだが長嶋さんと深く交流するようになったのは、1989年(平元)のパーティーがきっかけ。
「長嶋さんの信頼が厚かったニッポン放送の深沢弘アナウンサーが『せんちゃん、長嶋さんを紹介してやるよ』って。長嶋さんは1回目の監督を辞めて“浪人中”だったんですけど『いつもテレビで見てますよ』って。『ゴルフやりますか』って言われて『やりましょう』って言ったら『電話番号を書いて、イン・マイポケット』って言われたんですよ」。
翌々日に電話が鳴って、ラウンドが決まった。「スタートホールで、長嶋さんが右直角のOBを打ったんですよ。他の3人は何も言えなくて一瞬静寂があって、ご本人が『ファウルですね』って。この人は、やっぱり天才なんだと思いました。2年間ぐらいゴルフやって食事したり、仲良くさせてもらいました。92年の10月にパッと新聞を見たら2回目の『監督就任』と。その日、長嶋さんに会って『監督やるんですか』って聞いたら『やらない』って。監督になったら会えなくなるから寂しくなるって言ったら、長嶋さんが『せんちゃん、大丈夫、東京ドームに来れば会えるよ』って、やるんじゃないですか(笑い)」と振り返った。
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監督に復帰した長嶋さんの応援に東京ドームに通った。「関係者入り口に、ちょっと体の不自由な中学生の男の子を連れたお父さんがいたんです。札幌から来て『長嶋監督に会いたい』と。それで小俣進専属広報に連絡を取ると『どうぞ、どうぞ』って。試合前の監督室に入れてくれて、サイン、握手をして写真を撮ったんです。監督が『よく来てくれましたね〜』って、その子をハグしたらお父さんも、その子も泣いちゃいました。この人は神様だなと思いました」
長嶋さんが晩年に親しくつき合ったのが不動産会社ワイ・エムオフィスの鱒渕秀人会長(74)だ。「年末の鱒渕さんのパーティーに行って、長嶋さんの思い出をみんなで語り合いました。鱒渕さんのお嬢さんのひかりさんの名付け親は長嶋さんなんですよ。東日本大震災のあった2011年(平23)に生まれたんで『日本を明るくするためにひかりという名前をつけましょう』と。長嶋さんは、ひかりちゃんと会うと、必ず『あかりちゃん、大きくなりましたね』。『私、あかりじゃありません。ひかりです』って直されてね。それでも帰りに『あかりちゃん、また来てね』って」と笑う。
長嶋さんの公式行事の司会は全てせんだだった。「せんちゃん、せんちゃんって『せんちゃんだったら、いつでもスケジュールが空いてるだろう』って。長嶋さんは今でも、日本を明るく照らし続けている。そう思っています」と話した。【小谷野俊哉】
◆せんだみつお 1947年(昭22)7月29日、旧樺太生まれ。72年TBS番組「ぎんざNOW!」、73年日本テレビ「うわさのチャンネル!!」で人気になる。得意ギャグは「ナハ、ナハ、ナハ」。長女せんだるかは山本浩二の三男と結婚。163センチ。血液型O。
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