1970年F1ベルギーGP 優勝したペドロ・ロドリゲス ベテランモータースポーツジャーナリスト、ピーター・ナイガード氏が、F1で起こるさまざまな出来事、サーキットで目にしたエピソード等について、幅広い知見を反映させて記す連載コラム。2026年F1のトピックのひとつは、メキシコのスター、セルジオ・ペレスが復帰することだ。この出来事にちなみ、メキシコ・モータースポーツ史に名を刻んだ伝説の存在、ロドリゲス兄弟の生涯を振り返る。兄ペドロ・ロドリゲスは86年前の1940年のちょうど今の時期、1月18日に生まれた。弟リカルドは1942年2月14日生まれだ。
前回のリカルド編に続き、後編は、兄ペドロに焦点を当てる。
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ペドロのキャリアは父ドン・ペドロの資金力と影響力に支えられてきた点で、弟と共通していたが、才能やスピードでは常にリカルドの影に置かれ、より慎重で現実的なドライバーと見られていた。
1962年11月、メキシコを震撼させた弟リカルドの事故死は、兄ペドロの人生を決定的に変えた。ペドロは、自らのレーシングキャリアに終止符を打つと宣言したのだ。だが、その決断は永続的なものではなかった。
■弟の死で一時は引退も、F1と耐久レースで真価を示す
ペドロはわずか数カ月しかレースから離れていられなかった。ペドロは、「リカルドの記憶を称えること」を考え、復帰を決意する。弟のキャリアが悲劇に終わったことで父の支援は得られず、以後は自力で戦うことになる。だがペドロは、リカルドがF1最年少デビューを果たしていた頃、メキシコシティで自動車ビジネスを成功させており、経済的に自立していた。
ペドロは1963年にロータスからF1デビューを果たすが、当初はリタイアが続いた。以後数年間はスポーツカーを主戦場とし、F1には散発的にしか参加しなかったものの、1964年と1965年には、リカルドがかつて在籍していたフェラーリから母国GPに参戦した。
本格的にF1へ挑戦したのは1967年であり、開幕戦南アフリカGPでクーパーを駆って劇的な初勝利を挙げる。同年と翌1968年に選手権6位となり、同時にスポーツカーでも輝かしい成績を残した。デイトナでの勝利、1968年ル・マン24時間制覇、さらにフェラーリやポルシェで世界スポーツカー選手権を席巻するなど、その活躍は多岐にわたった。
派手さでは弟に及ばなかったが、1960年代末にはペドロは、世界屈指の万能ドライバーとして評価される存在となる。特に雨のレースでの強さは際立っていた。
■多忙な絶頂期と突然の悲劇
NASCAR、Can-Am、インディカーにも挑戦したペドロは、弟に劣らぬ才能を持ちながら、より深く掘り下げてそれを発揮したドライバーであった。メキシコの国民的英雄という地位を弟から引き継いだペドロは、英国に拠点を置き、鹿撃ち帽を愛用し、常にタバスコを携帯する風変わりな一面も見せた。
1970年にはBRMに加入し、難所のスパ・フランコルシャンで2勝目を挙げる。1971年はF1とスポーツカーの両方でフル参戦し、両シリーズで素晴らしい成績を挙げていた。7月初旬、珍しくレースのない週末を迎えた彼は、ヘルベルト・ミューラーからノリスリンクでのレースのためにフェラーリのスポーツカーを提供するという申し出を受け、喜んでレースに参加した。
予選でフロントロウを獲得、すぐにリードを奪い、12周目にはすでにフィールドで最も遅い車をラップしていた。しかしポルシェを追い抜こうとした時、ペドロはコントロールを失い、最初にコンクリートの壁に、次に金属の障壁に衝突した。マシンはすぐに炎上し、火を制御してペドロをコクピットから救出するのに2分かかった。
病院への搬送中、彼は3回心停止したが、医師たちは彼を蘇生させることができた。ニュルンベルクの病院に到着した直後、ペドロの心臓は4回目の停止をし、今回は医師たちも彼を救うことができなかった。
ヨーロッパ時間の午後3時30分、病院はペドロ・ロドリゲスが31歳で死亡したことを発表した。早朝のメキシコで、その知らせが父ドン・ペドロに届いた。メキシコシティの自宅に集まったジャーナリストたちの前に進み出た時、彼は静かにこう言った。「ペドロは、私がリカルドの隣に用意していた墓へと、私を追い越して行ってしまった」
[オートスポーツweb 2026年01月19日]