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かつて鉄の町として栄えた北九州に、戦争の記憶を継承する100歳がいる。吉村利子さんだ。とにかく、食べ物がなかった。燃料もなく、機械を作る鉄も足りなかった。それでも懸命に突き進む彼女の情熱は、鉄工職人を突き動かし、やがて全国の子供たちや、なりわいを探す母たちのもとへと広まっていく。これは、甘いポン菓子に人生をかけ、激動の時代を強く生き抜いた女性の物語──。
■「一生懸命働いておれば、子供たちもまっすぐ育つ」。ほぼ寝ずに全国を営業して
「『ドカン』と鳴ったと同時に、ときどき煙と一緒に木の上まで飛ばされる子がいるから、気をつけろよー!!」
リヤカーを引いてやってきたポン菓子屋のおじさんの口上に、集まった子供らの顔がこわばる。それでも、いざポン菓子ができあがると、甘くてサクサクの食感に、どの子供にもとびきりの笑顔がはじける。
昭和40年代まで、日本各地で見られた光景だ。地域によっては、その大音響の印象のまま“ばくだん”と呼ばれていることも。
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利子さんが言う。
「ポン菓子を食べた子供たちは、『おいしい、おいしい』と大喜びで、それを見た私も本当にうれしくなったもんでした」
国産ポン菓子機1号機完成の翌年に吉村製作所を設立。一方家庭では、さらにその2年後より、利子さんは子宝を得て3男1女の母となる。
「私が一生懸命に働いておれば、子供たちもその背中を見てまっすぐに育つと信じとった。だから私は、とにかく自分の仕事を大切にしてきたんよ」
この言葉のとおり、三男の雄三さん(73)が覚えているのは、いつも工場にいた両親の姿だ。
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「この母の記憶は、ほとんど働いている姿だけ。元教師だけあって、ふだんの挨拶などのしつけは厳しかったです。私が小学生のころは、3日に1台のペースで親父がポン菓子機を作るのを見てました。しかしその父も深酒のせいか、胃がんがもとで52歳の若さで亡くなりました」(雄三さん)
鉄鋼職人だった利子さんの夫・文夫さんの逝去は、1967年のこと。このころには、ポン菓子は定番のおやつとしてすっかり定着していた。急増する注文をこなす重圧は、一人、利子さんの小さな肩にのしかかっていく。夫に代わり工場を仕切り、最盛期には60人もいた職人を束ね、さらには自ら徹夜で鉄を削る作業をするようにもなる。機械に薬指を挟まれる大ケガをしたのも、このころだ。
先の大阪万博が開催された1970年ごろ、40代の利子さんの睡眠時間は1日3時間。需要に応えるべく、ポン菓子機と共に日本中を営業してまわっていた。さらに、国が米の消費拡大運動を展開したことや、いわゆる脱サラブームも手伝い、まさに“飛ぶように”売れた。’70年代半ばには、年間2千台が出荷されたという。
「工場で働きづめでも、母の口から『きつい、おなかすいた、眠い』を聞いたことがありません。子供心に、お母ちゃんはいつ寝てるんやろう、と不思議でした。営業では海外へも行って、たしかハイチがいちばん遠かったと。テレビで当時の世界最貧国と知って、居ても立ってもいられなくなったようです」(真貴子さん)
利子さん自身も、当時をこう振り返る。
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「工場でケガもヤケドもしたけど、生きていくのに必死やったの。月に100カ所まわったことも。海外なんて、まわりは反対しましたが、ポン菓子のために死ぬなら本望という気持ちやったからね」
今も作業場に掲げられている、「ポン菓子機こそ我が命」の色紙も、この時期に自らしたためたものだ。しかし、社会がどんどん豊かになるにつれて、子供のおやつを取り巻く状況も大きく変わっていく。
’80年代になると、多種多様なスナック菓子が隆盛となり、ポン菓子の人気にも陰りが見え始める。そこに鉄工業そのものの不振も加わり、’98年には工場を閉鎖。以降利子さんは、主に販売や修理、イベントでの実演を中心に担うようになっていく。18歳で北九州にやってきた利子さんも、72歳になっていた。
「それでも私は朝5時半には起きて、事務所に顔を出してたよ。幸いポン菓子機の仕事も、子供たちが引き継いでくれたから」
’99年には、ポン菓子機の製造を三男の雄三さんが継いだ。続いて’02年には、上京した長男の文明さんが「ポン菓子機販売」を設立して、新企画の商品を展開していく。実は文明さんは、母親と同じ教職に就きながら心機一転、新天地での起業を果たしたのだ。
「両親の仕事を継承したいとの思いでした。時代に合わせてコンパクトなポン菓子機で勝負しようと考え、弟に頼んで、小型でスタイリッシュな型を開発したり。私も元教師ですから、ゲームにばかり夢中になっている現代の子供たちに、ポン菓子機を通じて、目の前で起きるドキドキの生身の体験をさせてやりたかった」(文明さん)
利子さんと長女の真貴子さんは、製造の一線からは身を引き、修理や使用法の指導を受け持つように。
「小学校や子供会からの依頼を受けて実演に行ったり。『ドカン!』という音を聞いて喜んでる子らを見ると、かつての飢えた教え子を思い出して、ようやく日本も平和になったんやな、と思いました」
こう利子さんが言えば、文明さんたちきょうだいも口をそろえて、かつて工場に届いた手紙について語った。
「戦後の復興のなか、ポン菓子機で商売をして家族を養った人も多かったんです。『ポン菓子機のおかげで、子供を大学の医学部にやることができました』という手紙をよく覚えてます」(文明さん)
1世紀の年月をポン菓子機と共に生き抜いてきた利子さんは、一見、平和で豊かに見える現代を生きる子供たちとお母さんへ、こんなメッセージをくれた。
「子供たちへ。自分だけじゃなく、みんなのことも考えてあげてね。そして、お母さん。平和というのは、家族がいつも一緒におること。あの戦争の時代は、それが失われてしもうたから。それがいちばん大事ということ、どうか忘れんでくださいね」
■長寿の秘訣は“若いときの頑張り貯金”。これからの目標は小説を書くこと!
「100歳を迎えるというので、国と県と市からは去年のうちに表彰状などが送られてきましたが、母自身は、いつもと同じ生活です。要介護認定は4で、週2でデイサービスに通っています。耳も遠いですが、補聴器は嫌がってつけません。足も悪くて杖も買いましたが、本人は『こんなん使うか、あんたが使い』と(笑)。
好物は、ウナギ。ずっと変わらないのは、おいしいものを食べると必ず『あんたも食べりぃ』と言うこと。ああ、母の“人にはやさしく”という精神のルーツは100歳になっても変わらないんだなと思います」(真貴子さん)
真貴子さんによれば、今でも開発者である利子さんに会いたいと日本中からファンが訪れ、ポン菓子機の実演を母娘ですることも。
「数年前から、機械の蓋を開けるときの木槌は重いので私が代わっていますが、最近は私も70代となり、一発では開けられなくなっていたり。ただ、母は多くのことを忘れても、ポン菓子機のこととなると鮮明に覚えていて、夢中になって説明しています。一昨年からは、母が元教師だったというご縁で、母の生まれ故郷大阪府八尾市の小学校で、ポン菓子機を通じた生徒さんたちの体験授業も行われています。ここ北九州でも地元の劇団によって母の生涯の舞台化が動き始めるなど、本人も喜んでいます」(真貴子さん)
100歳にして、なお元気でいる秘訣について、当の利子さんは、
「それは、若いときに日本中をまわったり、懸命に働いた体験があるから。そのときに頑張った分の気持ちの貯金のおかげで、年とっても笑って過ごせるんよ」
現在、ポン菓子機の製造を技術主任として「タチバナ機工」(八幡西区)で行う雄三さんは、
「ポン菓子機を手作りで1台ずつ製造しているのは、うちだけ。両親の精神を継いでいるとの自負もあって、販売やメンテナンスも対面で行っています。すると不思議に、まず『どんな仕組みになってるんだ』と人が集まってくる。この人と人とのふれあいこそ、母が大切にしてきた原点です。それを忘れずに作り続けたい」(雄三さん)
文明さんも、喜寿を機に「両親の創業の地で再スタート」との思いで、昨年末に東京から利子さんたちの暮らす隣町の小倉北区に事務所を移した。
再び息子、娘ら家族に囲まれて百寿を迎えた利子さんに、さらなる人生の目標を尋ねた。
「小説を書きたいね。子供のころから理科以上に国語が好きで、先生からも作文を褒められておったからね。タイトルも決まっとって、『鉄と女』。どうかな、おもしろそうやろ」
世紀を超えて歩んできた100年。利子さんの隣には、いつも愛する人々の笑顔と、ガタンゴトンと回り続けるポン菓子機があった。
(取材・文:堀ノ内雅一)
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