
社長、除染作業員、ホームレスを経て、62歳で異例の作家デビューを果たし、文学界に強烈なインパクトを与え続けた作家・赤松利市(あかまつ・りいち)さんが、13日都内の病院で、70歳で亡くなった。波乱万丈という言葉すら生ぬるいその70年の人生は、まさにドキュメンタリー映画のようだった。
生前『週刊女性』の密着取材に応じ、自らの破天荒な人生と底辺からの叫びを隠すことなく語っていた赤松さん。その熱い言葉と人間味あふれる人となりを振り返りながら、唯一無二の証を追悼する。
パチンコで腱鞘炎に
赤松さんの凄みは、その極端すぎる落差にある。実の父親は香川大学の農学部長を務めた植物病理学者で、ノーベル賞候補とまで目された優秀な頭脳の持ち主だったという。赤松さんもまた、当然のように理系の学者を目指す少年期を過ごした。
しかし、高校3年の夏休み、運命の歯車が大きく動き出す。
「裏庭の土間を開けたんです。大きなつづらが出てきました。つづらを開けると、曽祖父が使っていた浄瑠璃の台本がいっぱい出てきた。気がつくと、パズル感覚で難しい文字を読み解いていました。それがすごく面白くて。夏の終わりには文学部に行きたいと親父に言うてましたね」
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赤松さんは、大阪・十三で浪人生活をスタート。しかし、彼が没頭したのは勉強ではなくパチンコだった。必勝法を編み出し、当時の日当で現在の4万〜5万円に相当する額を稼ぐ本格的なパチプロに。
ところが、パチンコのやりすぎで右手腱鞘炎を発症。「やべえ、どうしようと。そこで思いついたわけや。“大学でも行こう”と」と一念発起し、試験までわずか2か月という短期間の猛勉強を開始。結果、関西大学、同志社大学、早稲田大学のすべてに合格するという驚異的な頭脳を見せつけた。
大学卒業後はさまざまな仕事を経験し、一時は年商数億円を誇る社長として浮き名を流した。しかし、人生の絶頂は長く続かず、事業失敗、倒産、そして4度の離婚……。
その後、東日本大震災の被災地で原発の除染作業員や復興作業員として現場に入り、泥と汗にまみれながら日銭を稼ぐ日々を送った。
「まずは土木作業員をやりましたが、復興バブルというほど収入にならなかった。その後は南相馬に移って、除染作業に従事しました。除染作業の現場はかなりヤバかった。よそで働けないような流れ者や反社の人間もいました」
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「主人公の大西浩平は100%私です」
極限状態の人間模様をその目に焼き付け、赤松さんは除染作業員宿舎に荷物を置いたまま、夜行バスで逃亡する。所持金は5000円だった。後にネットカフェを転々とするホームレスへと転落。そしてキャバクラの店員を経験。
「最初に“お客様にお店をご案内するお仕事です”とあり、いろいろ書いてあるんだけど、最後に“捕まっても自己責任でお願いします”と。3軒目は上野の仲町通り。キャバクラと聞いて行ったら、女の子がおっぱい出して客が揉んでた。おっパブですわ。結局、そこに就職しました」
路上生活から62歳で作家デビュー。2017年11月25日、第1回大藪春彦新人賞受賞者発表。赤松利市の『藻屑蟹』は、選考会満場一致で受賞が決定した。
自らの過酷な体験と、そこで出会った癖のある人間たちを一切の飾りのない泥臭い文章で描き出した作品群は、文壇に大きな衝撃を与えた。自伝的小説『ボダ子』について尋ねられた際、赤松さんは煙草をくゆらせながらニヤリと笑ってこう語る。
「自分都合のド腐れ畜生な生きざま、主人公の大西浩平は100%私です」
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4作目の長編小説では、彼の実体験をもとに描かれている。
取材時、お酒(特にレモンサワー)を嬉しそうに飲みながら、担当編集者との壮絶な原稿のやり取りや、破天荒な日常を楽しそうに明かしてくれた赤松さん。その眼光はどこまでも鋭く、しかし温かい愛嬌に満ちていた。
生きづらさを抱える現代人や、格差社会の煽りを受ける人々へ向けて、赤松さんは自身の死生観を混じえてこう強い言葉を残している。
「私は“下級国民”。死ぬまで差別と貧困を書き続けます」
62歳で彗星のごとく現れ、70歳で駆け抜けるように去っていった赤松利市さん。
波乱に満ちた人生のすべてを文学の糧に変え、どん底から放たれた言葉の数々は、今も多くの読者の胸を打ち続けている。悲惨な現実すらも圧倒的な熱量と笑いに昇華させたその生き様は、まさに人間ドラマの最高峰だった。
週刊女性PRIME

