
【前編】「お告げやなって…」純烈リーダー・酒井一圭 “売れない俳優”が歌手転身を決断した「転機の大ケガ」から続く
’07年に純烈を結成、’10年にメジャーデビューを果たすも一向に売れない日々が続いたリーダーの酒井一圭(51)。その後、“あること”がきっかけとなって彼らの人気は爆発的に拡大する。現在、弟分グループ・モナキのプロデューサーとしても活躍する酒井だが、はたして“モナキ現象”の舞台裏とは――。メンバーの証言も得ながら4人の頼れる“兄貴”として奔走する“遅咲きプロデューサー”の原動力に迫る。
■純烈の成功からモナキへ。原動力は亡き父親が握りしめていた“靴店のレシート”
「でもまったく売れない。笑っちゃうくらい売れなかった。ショッピングセンターに歌いに行っても、誰も足を止めてくれへんねん。ちょうど韓流タレントが注目されていたから、『ニホンゴうまいね』と勘違いされることも」
だが『ラブユー東京』や『星降る街角』など昭和ムード歌謡を歌うと、年配者が足を止めてくれた。
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「昭和ムード歌謡のあとにオリジナル曲を歌うのが営業スタイルに。同情してCDを買ってくれる人もいましたが、純烈だけで食べていくなんて不可能。
それまでわが家の生活を支えていたマネジメント業の収入は、メンバーの白川(裕二郎)や、小田井(涼平)さんへの給料の支払いに充てていたんです。だからデビュー後2年の年収は2万5千円ですよ(笑)。ボクは楽しかったから幸せでしたが、妻は実家の援助を頼るしかなく、悔しい思いをしていたと思います」
手応えを感じ始めたのは、地道に続けた温浴施設への営業だ。
「各地のお風呂屋さんのライブは、おばさまたち全員が立ち上がって、ガラス窓が熱気で曇るくらい踊りまくる天国のような世界だったんです。“この熱狂ぶりを誰か気づいてくれへんかな”ってずっと待っていたんです」
それに最初に注目したのはTBSの深夜番組のスタッフだった。’16年、純烈のライブを見るためにファンが前夜から泊まりがけで並ぶ姿が放送されたのだ。
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「オンエアを見た瞬間、“カチッ、カチッ”って頭の中でピースがハマる音が聞こえて、思わず妻に『これで売れる! 今までよう辛抱して頑張ってくれた、ご苦労さん。これからのし上がっていくから、よう見といてくれ』って。それ以来、ギャラはすべて妻に管理してもらって、ボクはまるでオレオレ詐欺のように、その都度お小遣いを振り込んでもらうシステムです(笑)」
番組放送の翌日からワイドショーや情報番組からの出演依頼の電話が鳴りやまなかった。4人目の子供が生まれたころには純烈の知名度も上々に。もやし中心の食生活が改善され、子供たちの服装もきれいになったという。
そして’18年から8年連続紅白出場という快挙を成し遂げることに。現在では、純烈の弟分のモナキの出場も期待されている。
「純烈が紅白に初出場したころから、もう一つ、グループを作ろうという構想はあったんです。でもメンバーの脱退が重なって着手できなかったんです」
ようやく弟分のプロデュースが動き出したのは、50代を目前に控えたときだ。
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「こんな自分を救ってくれた芸能界への恩返しです。その芸能界を、今の若者がもっと夢を見られる場所にしたい。一度は夢が破れても、いつでも戻ってこられるチャンスを作りたい」
そんな思いから’23年10月に「純烈・酒井一圭プロデュース セカンドチャンスオーディション」を始動。約1千人の応募があった。
「純烈の弟分という世界観のため、カッコよすぎはダメ。素朴な雰囲気で人から道を聞かれやすいようなタイプを選びました」
スタッフを集めた選考の場で、大きなモニターに応募者の写真をスクロールしていく。酒井は「次、次」と審査を進めたが、ある応募者の写真を見て「あ、ちょっと戻して」と言って、応募者が投稿した歌を流してもらった。
「純烈の弟分なのに“なんでロックを歌うねん”と思ったのが、おヨネ。本名は米田ですが、おまえどっちやねんって思うほどユニークなキャラやから、おヨネと命名しました」
おヨネが語る。
「高校生のころから、カラオケ店の録音機能からオーディションに応募できるサービスを利用していて、社会人になってもそのルーティンを続けていました。
自分は“純烈さんの弟分”というイメージとかけ離れすぎているので、応募はいったん踏みとどまりましたが『個性的な人大歓迎』という募集動画を見て挑戦を決意。酒井さんはお会いするたびに『おまえはおまえでええ』とおっしゃってくださいます!」
柔らかさを出すために平仮名の名前を与えられたじんは、
「酒井さんからの『カバンを空っぽにして現場に来い』という言葉が心に残っています。常に新鮮な気持ちとハングリーさで現場にのぞみ“得られるモノは一つ残らず持ち帰れ!”という意味だと受け止めています」
いくつかの案を経て、芸名が決まったサカイJr.は、
「酒井さんの『芸能界で食べていくには、挨拶をする、約束を守る、?をつかない、仲間を大切にするという、人として当たり前のことを当たり前にやる』という言葉が、金言として残っています」
当初3人のグループと考えていたが、全員の生真面目さに物足りなさを感じていたときに出会ったのが、純烈元メンバーの友井雄亮が店長を務める焼き肉店の従業員で、元戦隊ヒーローのケンケン。
「また芸能界に戻りたいなという気持ちが芽生えたときに、声をかけていただきました。自分より周りの幸せを最優先に考えたら自分に返ってくるというアドバイスを、実践していきます」
酒井が振り返る。
「ケンケンは、ブラックコーヒーに混ぜる、最後のひとさじの粉クリーム。ふわっと溶け出して、思い描いていたコーヒー牛乳が完成したという感じでした」
4人の弟たちによって結成されたモナキだが、当初は「売れるわけない」と否定的な意見もあった。
「ところがしばらくすると、宣伝費も接待費もかけていないのに、モナキ関連動画の再生回数が尋常じゃない伸びを見せたんです。
これは、あいみょんやあのちゃん、霜降り明星、インフルエンサーの皆さんが勢いに弾みをつけてくれたおかげ。純烈の関係者も『モナキ、面白そうですね。手伝いますよ!』って熱心に協力してくれて」
そもそもこうした応援を得られたのも、純烈という存在があったからだ。
「純烈が売れたのは、深夜番組で取り上げてもらったことがきっかけ。でもボクの原動力としては、ブレークと同時期に亡くなってしまった親父の存在が大きいんです。
親父がボクに言った最後の言葉は『子供たちの靴のサイズを教えろ』でした。ボクに収入がなかったから、孫のために靴を買ってあげようと……。そして靴を購入して帰宅したときに、親父は心筋梗塞で倒れて亡くなったんです」
父親が握りしめていた靴店のレシートからは、息子家族を思う痛いほどの愛情があふれ出ていた。
「親父には純烈の紅白出場を見せることができなかった。その悔しさが最後の一押しになってボクを奮い立たせ、現在の場所にまで押し上げてくれた。ほんま申し訳ないけど、親父の死があったからこそ、いまの純烈があるんです。
親孝行できなかった分、家族やスタッフ、メンバー、ファンの皆さんを幸せにしたいって本気で思えて頑張れるんです」
■芸能人生で培った独自のプロデュース観「毎日60点を目指すだけでいいんです」
「昨日はバラエティ番組のロケがあって、自宅には帰らずに都内ホテルに宿泊。今日は朝5時からのTBSラジオの生放送のために4時起きでした。放送後にいったんホテルに戻って仮眠して、このインタビューに来ました。終わったら会社に戻って2社の取材をして、空いた時間に本を執筆して──」
休む間もない日々を送る一方で、モナキの快進撃は続いている。
「大好きな競馬でたとえると、最後の最後に格安で入手した馬が、あれよあれよと大舞台のレースで勝利をもぎ取るようなイメージ。次はどのレース? どんな戦法? 戦略で頭がいっぱい」
とはいえ、モナキには、ステージングや歌のアドバイスなどはせず、人間としてごく当たり前のことしか言わない。おヨネが言う。
「『ステージの裏側がそのまま表側に出る』という言葉がいちばん印象に残っています。ステージに立ったら何をしてもいいけれど、裏側がおざなりになっていたらステージ上で見抜かれてしまう。玄関の靴のそろえ方、楽屋をきれいに使う、ホテルのベッドメイキングをするなど、行儀作法の部分からきっちりすることが大事なんだということを学びました」
基本、現場のことは現場に任せているのだ。
「ボクのアドバイスといっても“無理すんなよ”くらい。365日ステージがあった純烈リーダーからすると、毎日60点を目指すだけでいいんですよ。いつか引退するときには、みんな心身ともに無事でいてほしい。無理をさせて故障してほしくないんです」
兄のような優しい目線でモナキメンバーを気遣う酒井は、混じり気のない“純”な気持ちで、“烈”しい芸能界をたゆたうように生きていく─―。
(取材・文:小野建史)
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