
北海道などに先住していたアイヌ民族が、日本兵として戦争にかり出された歴史があります。激しい差別を受けながら戦地に向かったアイヌたちの、複雑な思いとは。
【写真で見る】激しい差別と複雑な思い…アイヌ民族 日本兵として戦場へ、「戦争と差別」その先にある願い
「お前アイヌだからやったべ」先住民族アイヌ 差別の歴史2025年5月、大阪・関西万博。アイヌ民族による舞踊が披露された。舞踊のテーマは「ウレシパモシリ」。“共に生きる大地”を意味するアイヌの言葉だ。
総監督を務めた北海道釧路市のアイヌ民族、秋辺デボさんは「ウレシパモシリ」について、こう説明する。
舞踊総監督・アイヌ 秋辺デボさん
「風も山も火山も、この波1つ、湖1つ。これらが全部お互い支え合ってこの世界は成り立っている。『戦争している場合じゃない』と言えるのはこの言葉だ」
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しかし、アイヌの歴史は、“戦争”や“差別”と切り離せなかった。
独自の言語や文化をもつ、日本の先住民族アイヌ。明治政府はアイヌが暮らしてきた土地を取り上げ、サケ漁やシカ猟、アイヌ語も禁止した。
さらに、旧土人保護法に基づいて農耕に適さない荒れた土地を渡すなど、「保護」という名の元に同化政策を推し進めた。アイヌは独自の文化を奪われ、過酷な差別と偏見に見舞われた。
アイヌの伝統が色濃く残る、北海道平取町二風谷。
濱田清孝さん(65)。父・寛さんの墓前に来るたびに50年以上前の、ある夜のことを思い出す。寛さんは、幼い清孝さんに、突然、自分の体毛を剃るよう指示したと言う。
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濱田清孝さん
「女房にやらせりゃいいのにと思った。小学校5年生の俺にやらせるんですよ、あれは辛かったですね。『毛が生えている=アイヌ』というのが、すごく嫌だったんだろうなと思いました」
寛さんへの教師による差別は、日常茶飯事だったという。
濱田清孝さん
「結構いい点数、100点取ったらしい。そうすると教官が、『アイヌであるお前が100点取れるわけがない』と。いわれもない差別ですよね、とんでもない差別を受けた」
さらに…
濱田清孝さん
「お金に関すること。お金が無くなった。そうしたら、『お前アイヌだからやったべ』というような、ひどい(仕打ち)を受けて『絶対やってない』と言った。結局、親父のことを気に食わない同級生がやっていた」
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差別されてきたアイヌだが、戦争が始まると、「日本軍の兵士」として戦地に駆り出された。寛さんは、20歳で日本兵として旧満州へ。
戦後、地元の広報誌に、部隊の中で浴びせられた言葉について、こう記していた。
寛さんが寄稿した広報誌
「日本語わかるか文字読めるか」
濱田清孝さん
「『うちの隊にはアイヌがいるらしい』『アイヌは出てこい』と言って、『お前らは生肉食うのか』と。吊るし上げですね、いじめですね完全に。何千人もいる中で前に出された。吊るし上げを最初の頃は受けたと言っていました」
部隊の中でアイヌ兵が差別を受けたという証言は他にもある。
千歳市のアイヌ民族・中本俊二さん。配属された旧樺太の部隊で、上官から激しい暴力を受けた。
部隊で差別を受けたアイヌ 中本俊二さん(1994年)
「『あの野郎はアイヌのくせに生意気だ』と私をこきおろしておりました。私がアイヌ兵士であるということだけが、暴行する目的だったと思います」
中本さんは危険な前線に送り込むための特別部隊に選ばれた時、仲間の多くがアイヌのように見えたという。
部隊で差別を受けたアイヌ 中本さん
「死ななきゃならないような、危険なところはアイヌ兵士で補って、なるべく和人の兵士は生き残しておきたいということではないでしょうか」
アイヌがルーツの野村喜代一さん。見た目と体格を理由に、ソ連の最前線に送られたと孫の諭史さんは言う。
祖父がアイヌ兵 野村諭史さん
「『お前、ロシア人に見えなくもないから、敵地へ行け』と。スパイ活動なのか物資調達なのか食料調達なのかわからないけど、『行ってこい』と言われて、上官だから逆らうことができず、やっぱりあっけなく捕まっちゃって。理不尽というか、それが部隊の人みんなに平等に与えられた使命ならまだしも」
アイヌだけではなく、ほかの少数民族が日本軍に都合良く利用された例もある。
サハリンの北方少数民族、ウィルタだ。ソ連と日本の国境付近を比較的自由に行き来できたという地理的な理由や、身体能力の高さから、日本軍によってスパイ活動に従事させられた。
戦地に「平等」求めたアイヌ父が元アイヌ兵 濱田清孝さん
「どれだけ自分のことが好きかわからないけど、これを作った」
旧満州の部隊に所属した元アイヌ兵・濱田寛さん。差別を受けたにもかかわらず、部隊での自身の活躍について誇らしげに記していた。
「成績優秀にして進級は、各階級とも第一選抜であった」
得意だった馬の世話で上官に気に入られるなど、寛さんは、軍の中で二等兵から軍曹まで昇進した。
父が元アイヌ兵 濱田清孝さん
「戦争に行って認められたいんだと。頑張って、手柄を立てて見返してやるという人もいっぱいいたのではないか」
アイヌの近現代思想史を研究する国立民族学博物館のマーク・ウィンチェスター助教は、戦争に「平等」を求めたアイヌ民族も多数いたのではないかと指摘する。
国立民族学博物館 マーク・ウィンチェスター助教
「北海道の植民地化によって被ってきた不利な部分を、自分たちが徴兵されることで、やっと平等な立ち位置に立てるという状況」
戦死したアイヌ兵たちが眠る場所がある。沖縄・糸満市真栄平。木漏れ日が差し込む集落の高台に「南北之塔」と刻まれた慰霊碑が佇んでいる。
「キムンウタリ」。アイヌ語で、「山の友」という意味だ。なぜ遠い沖縄に、北海道の先住民族の言葉が刻まれたのか?
国内最大の地上戦とも言われる沖縄戦。死者は日米合わせて20万人以上。沖縄県民の約4人に1人が亡くなった。実は、沖縄戦での北海道出身の戦没者は1万人余り。沖縄県に次いで2番目に多い。
沖縄戦を生き延びた北海道の男性(2021年)
「死体がゴロゴロ…。一番かわいそうだと思ったのは、母親が子供を背負って、(体が)半分になって、片方では子供が泣いていて母親が死んでいる。こっちには、母親の胴体がある、道路の反対側に。そんなのがもうずっと…」
沖縄戦でのアイヌ兵の戦死者は少なくとも43人。同化政策の影響などで、正確な記録は残っていない。
「南北之塔」に込められた願い沖縄戦を生き延びた、北海道弟子屈町出身の元アイヌ兵・弟子豊治さん。
元アイヌ兵 弟子豊治さん(1993年)
「思い出す。夢を見る時がある。ふいに米軍が現れて、騒いでいるような夢を見る」
弟子さんは31年前、このインタビューの後に亡くなった。
弟子さんの妻 桂子さん(82)
「平和だから、親だ兄弟だって仲良くできる。いざ戦場だと、自分の身を守るのが精一杯とよく(弟子さんが)言っていた。『戦争はするもんじゃない』。それはよく言っていました」
弟子さんは、戦火に散った仲間の姿が忘れられなかった。
元アイヌ兵 弟子豊治さん(1993年)
「沖縄行ってくるよ、もう1回。線香あげてお参りしてくる」
戦後、弟子さんは戦没者を弔うため幾度となく沖縄に足を運んだ。
その場所は、糸満市真栄平。ガマと呼ばれる洞窟がある。案内してくれたのは、地元住民の仲吉喜行さん。かつて、そこにはアイヌ兵か地元住民か誰のものかもわからない多くの遺骨が無造作に集められていた。
真栄平の住民 仲吉喜行さん(1993年)
「弟子さんが最初に来た時は、ここに遺骨が全部投げ込まれていた。これを見て弟子さんは『このままじゃいけない』と言って、いつか立派な塔をたててやろうと考えていた」
この場所に1966年に建てられたのが「南北之塔」だった。その後の映像には、アイヌ伝統の先祖供養の儀式、“イチャルパ”を行う弟子さんら、北海道から訪れたアイヌたちの姿が残っている。
「南から北まで、身元がわからない戦没者の遺骨を納め、慰霊したい」。戦後も沖縄の住民たちと交流を深めた弟子さんたちは願いをこめた。
弟子さんとともに南北之塔に携わった、アイヌの四宅豊次郎さん(87)。北海道釧路市の高齢者施設で、スムーズな日常会話が難しくなった今も当時のことは覚えていた。
看護師
「聞こえます?沖縄戦のことでお話聞きたいんですって」
Q.南北之塔のことは覚えていますか?
南北之塔に携わったアイヌ 四宅豊次郎さん
「よく知っています。南北之塔は、一生忘れたことはありません」
今年1月。南北之塔を訪れた親子が沖縄にいた。
釧路市出身のアイヌで、20代の頃から沖縄に暮らす玉城美優亀さんと、長男の寿明さん。南北之塔の意味を伝え残したいと考えている。
玉城寿明さん
「だいぶ汚れているね」
慰霊碑の前に溜まった落ち葉と、枯れた花。南北之塔では5年に1度、アイヌの先祖供養、「イチャルパ」が行われてきた。しかし、その儀式は20年前から途絶えていた。南北之塔がアイヌだけの墓だと誤解されたり、遺族が高齢化したりしたためだ。
2人は北海道から再びアイヌたちに来てもらい、沖縄の人たちと共に慰霊をしてほしいと考えていた。
玉城寿明さん
「ここで多くのアイヌの方が亡くなられているっていうのは事実ですから。ぜひ慰霊をしていただきたい。喜ばれるんじゃないですかね」
玉城美優亀さん
「今からまたね、手を取って仲良く。本当にここ(南北之塔)だけ、アイヌと北海道が関わってるというのは。平和になるためにはどうしたらいいのか、本当に考えさせられる。ここが原点」
そして6月23日、「沖縄 戦没者慰霊の日」。玉城さん親子の働きかけが実った。戦後80年の節目に6人のアイヌたちが儀式を行うため20年ぶりに南北之塔を訪れた。アイヌたちは木を削って作った神へのささげ物、「イナウ」を使って祈るのが伝統だ。
「イチャルパ」を行ったアイヌ 秋辺デボさん
「みんなの協力のおかげで、きょうこれが実現したということで、本当に私は嬉しく思っています」
南北之塔で、先祖供養・イチャルパが復活した。その様子を地元住民たちが見守る。
「イチャルパ」を行ったアイヌ 秋辺さん
「ここで亡くなられた兵士・民間・もしかしたらアメリカ兵も含めて、冥福を祈らせていただきました。誰かが死ぬのを平気な顔で見ていられるほど、俺は神経強くない。戦争やめて欲しいと言いたい。ここ(南北之塔)はそういうことを語るにふさわしい場所だと思っています」
イチャルパの後は沖縄の人たちが追悼。慰霊碑の前で静かに手を合わせた。
真栄平区長 照屋仁裕さん
「できれば毎年一緒に同じ日にやりたい。ただやっぱり儀式が違うから合同では難しいけど、同じ日に時間をずらしてもいい、今日のようにやっていきたい」
両者をつないだ玉城さんは…
玉城寿明さん
「まずは滞りなく無事に終えることができて嬉しい。平和をどう築いていくかっていうと、やっぱり今を生きている人たちが、この南北之塔を知って自分たちに何ができるのかを一緒に考えていく。そういう場にしたいなというふうに思っています」
追悼の後、地元の子どもたちとアイヌたちが共に歌い踊った。
参加した人
「一緒に踊ってくれるんだな、(アイヌは)すごく優しい人たちだなって。だから今日来てよかった」
「めちゃ来てほしい、また来てもらってまたお話したい」
差別を乗り越え、戦争を二度と起こさない。南北之塔の前で願う。