自公、相互依存の四半世紀=選挙協力が軸、政策で反目も

99

2025年10月11日 07:31  時事通信社

  • チェックする
  • つぶやく
  • 日記を書く

時事通信社

自自公連立政権に向けた3党首会談を前に握手する(左から)小沢一郎自由党党首、小渕恵三首相、神崎武法公明党代表=1999年10月、首相官邸
 自民、公明両党の連立政権は1999年に始まった。選挙協力を軸とした四半世紀余りの相互依存関係は、「平和の党」を旗印とする公明側が保守色の強い政策への賛同を強いられたり、選挙をにらんで自民側の首相が退陣を迫られたりするなど、曲折もあった。(肩書は当時)

 「いかなる宗教団体も、政治権力を行使してはならない。証人喚問をお願いしたい」。自民の亀井静香氏は94年の衆院予算委員会で、公明の支持母体・創価学会の池田大作名誉会長の国会招致を要求した。連立合意に先立つ90年代半ば、自民は公明が参画した新進党の台頭を懸念し、反学会キャンペーンで揺さぶりをかけていた。

 転機は98年参院選での自民敗北だ。安定政権を模索する自民と、学会攻撃を止めたい公明の思惑が一致。公明が提案した1人2万円の「地域振興券」配布を小渕内閣が受け入れ、99年10月に自公連立が実現した。

 自民は一部の選挙区を譲り、支持者に「比例は公明」と呼び掛ける代わりに、公明は全国の選挙区で自民候補を支援する態勢が定着した。自民ベテランは「これがなくなれば、痛みはこっちの方が大きい」と語る。

 選挙協力の恩恵を享受する一方、摩擦は絶えなかった。2003年の自衛隊イラク派遣や、06年成立の「愛国心」を盛り込んだ改正教育基本法など、自民主導のタカ派的な政策に公明も「加担」することとなり、党・学会内で不満がくすぶり続けた。

 政策面で押し込まれることもあった公明だが、参院選を控えた01年には、神崎武法代表が支持率の低迷した森喜朗首相の退陣を公然と促すなど、時に政局の主導的役割を担った。08年には、太田昭宏代表が就任直後の麻生太郎首相と水面下で接触。早期の衆院解散を迫ったが、麻生氏は拒否した。相互不信が深まる中、翌年8月の総選挙で自公は大敗し、野に下った。

 民主党政権の約3年間、公明は子ども手当など目玉政策に協力。民主の小沢一郎幹事長が学会幹部と面会するなど「民公接近」も取り沙汰されたが、連立には至らなかった。

 ◇げたの雪かブレーキか

 12年末の政権復帰後は、集団的自衛権の行使を容認する憲法解釈変更などを推進した安倍政権との距離感に苦慮しつつも、消費税率引き上げでは軽減税率の導入を実現。自民の「げたの雪」とやゆする声に対し、公明は「右傾化のブレーキ役」を自負し、連立を維持した。

 新型コロナウイルス禍の20年には、自民の岸田文雄政調会長が主導した減収世帯への現金給付を、公明が全国民一律の10万円給付に転換させた。

 近年は、公明の集票マシンとなる学会員の高齢化もあり、選挙協力の効果には陰りもみえる。7月の参院選は、過去最低の改選8議席と敗北。総括文書に「『政治とカネ』の問題で揺れ続ける自民党との距離感を見直すべきではないか」と記していた。 

自自公連立政権発足に向け、政策課題の詰めの協議をする(左から)公明・冬柴鉄三、自民・森喜朗、自由・藤井裕久の3党幹事長=1999年9月、国会内
自自公連立政権発足に向け、政策課題の詰めの協議をする(左から)公明・冬柴鉄三、自民・森喜朗、自由・藤井裕久の3党幹事長=1999年9月、国会内

このニュースに関するつぶやき

  • 公明党が離脱してくれたお陰で、解散総選挙の口実ができましたね。国民に審判させてほしい。保守回帰を望んでるからね。
    • イイネ!14
    • コメント 1件

つぶやき一覧へ(81件)

前日のランキングへ

ニュース設定