枕崎台風の供養塔前で説明する、ボランティアガイドの水上弘信さん=8日、広島県廿日市市 原爆投下1カ月後の1945年9月に広島県などを襲った枕崎台風から今年で80年。現在の同県廿日市市にあった「大野陸軍病院」では、被爆患者や京都大の原爆調査班メンバーら150人超が犠牲となった。地域のボランティアガイドは「防災や平和について考えるきっかけにしてほしい」として、原爆と台風の「二重の苦難」を語り継いでいる。
45年9月17日午後10時20分ごろ、台風の豪雨による土石流が病院の建物を直撃した。病院職員や収容されていた被爆患者のほか、被爆者の治療と調査のため派遣されていた京大関係者が犠牲となった。
地域の歴史ガイドを20年以上担う水上弘信さん(78)は、「(被爆患者は)せっかく助かって運ばれてきたのに1カ月後に亡くなり、痛ましい」と話す。ガイドでは、病院跡地付近に建てられた供養塔への案内に加え、戦時中の森林の伐採で土石流が発生しやすい環境だったことも伝えている。「被害の状況だけ話しても駄目。これを教訓に、いかに防災や平和につなげていくかが大事だ」と力を込める。
当時を知る人はほとんど残っておらず、生前に証言を求めても「忘れた」「思い出したくない」と応じない人もいたという。水上さんは、生き残った人の苦悩なども感じ取ってほしいと訴える。
廿日市市では14日、枕崎台風の伝承をテーマにしたシンポジウムが行われた。二重の惨禍を描いたノンフィクション作品「空白の天気図」作者の柳田邦男さんは講演で、「今日も学ばなければいけない教訓がある」と指摘。ロシアの侵攻を受けるウクライナでダムが決壊し大規模な洪水が発生したことに触れ、「二重災害はいつでも起こりうる」と警鐘を鳴らした。
災害から80年がたち「被害を体で覚えている人はゼロに近い」とした上で、「記録として伝えるだけでなく、防災に結び付けることがこれからの課題だ」と訴えた。

枕崎台風について講演するノンフィクション作家の柳田邦男さん=14日、広島県廿日市市