篠塚和典が明かす松本匡史との決まりごと 長嶋茂雄監督の強い意向に「大変そうだった」

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2024年07月31日 10:11  webスポルティーバ

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篠塚和典が語る「1980年代の巨人ベストナイン」(6)

松本匡史 前編

(連載5:「元気ハツラツ」中畑清の素顔「ミスターをかなり意識していた」>>)

 長らく巨人の主力として活躍し、引退後は巨人の打撃コーチや内野守備・走塁コーチ、総合コーチを歴任した篠塚和典氏が、各年代の巨人ベストナインを選定し、各選手のエピソードを語る。
 
 以前選んだ「1980年代の巨人ベストナイン」のなかで5人目に語るのは、青い手袋を着用していたことから"青い稲妻"の異名を取り、セ・リーグのシーズン最多盗塁記録(1983年に76盗塁をマーク)を持つ松本匡史氏。前編では入団当初の印象や1、2番コンビを組んだ際のエピソードを聞いた。

【内野守備は「ちょっと硬さがあった」】

――松本さんは篠塚さんのプロ入り2年目、1976年のドラフト会議で巨人から5位指名されて入団しました。当初の印象はいかがでしたか?

篠塚和典(以下:篠塚) 優しく物静かな印象でしたね。年齢は松本さんのほうが3つ上なのですが、話しかけにくい、といったこともありませんでした。松本さんは(入団3年目に)外野手にコンバートされますが、最初は僕と同じ内野だったので、練習も一緒にやっていました。確か、練習の時はセカンドを守ることが多かったんじゃないかな。

――内野の守備をどう見ていましたか?

篠塚 足が速いことは聞いていたので、その部分はものすごく意識して見ていましたよ。ただ、プレー全体の印象としては中畑清さんと同様に(笑)、ちょっと硬さがあったかなと。

――松本さんは早稲田大卒業後、社会人野球の日本生命に入る予定だったところ、長嶋茂雄監督(当時)の強い希望で巨人への入団が決まったと言われています。やはり"足"に魅力を感じていたんでしょうか?

篠塚 そうだと思います。ミスターはおそらく、V9時代の柴田勲さんのように"足が速くて盗塁ができる選手"が必要だと考えていて、松本さんに注目していたんでしょう。「1番に足の速い選手を据えて戦いたい」という考えは、巨人だけじゃなく当時の日本の野球界全体にあったような気がします。阪急の福本豊さんはその代表格ですね。

【足を生かすためにスイッチヒッターに転向】

――もともと右打ちだった松本さんは、足を生かすためにスイッチヒッターに転向しました。長嶋さんの意向で、1979年の伊東キャンプから取り組んだそうですね。

篠塚 挑戦した全員が成功したわけではないと思いますが、当時は「足の速い選手はスイッチにしたら面白い」といった潮流がありましたね。V9時代の柴田さんに始まり、広島の高橋慶彦さんや山崎隆造、大洋(現DeNA)の屋鋪要、阪急の松永浩美などスイッチヒッターが多かった。

 一塁ベースが近くなって足が生かせるのはもちろん、松本さんの場合は大学時代のプレー中に左肩を脱臼しているので、ミスターはそういうことも踏まえ、右腕をしっかりと使える左打ちもやらせたんだと思います。

――右打ちと左打ちでバッティングに違いは感じましたか?

篠塚 右打ちのほうが少し強くて、打球を遠くまで飛ばしそうなスイングに見えましたね。左打ちは足を生かせるように、ミスターがゴロや高いバウンドを打たせようと指導していました。外野にコンバートしたのも俊足をより生かすためだと思いますし、ミスターは当初からそういう考えを持っていたんじゃないですか。

――スイッチヒッターに挑戦するようになって、練習量も増えていましたか?

篠塚 もちろん増えていましたし、大変そうでしたよ。左が80%、右が20%ぐらいの感覚で練習していたと思います。右は少しだけ打って、左に重点を置くという感じ。左ピッチャーの時でも、右だけじゃなく左で打ったりと、いろいろなパターンで練習していました。

――松本さんのスイッチヒッター転向は、篠塚さんから見て成功したと思いますか?

篠塚 内野安打も増えましたし、成功したと思います。1983年には76個の盗塁を記録(セ・リーグ歴代最多)しましたが、右打ちのままだったら、そこまで多くの盗塁はできなかったと思います。足を生かせる左打ちをマスターして、出塁率が上がったからこその数字ですよね。

【松本が塁に出た時に意識していたこと】

――1番が松本さん、2番が篠塚さんという打順も多かったですが、ふたりで戦術面について話し合うことはありましたか?

篠塚 松本さんが走るまで僕は打たない、ということですね。なので正直、「早く走ってほしいな」という気持ちも少しはありました(笑)。ただ、牽制がうまいピッチャーもいますし、タイミングが合わなくてスタートが切りにくいピッチャーもいたでしょうから。待っているうちにカウントが追い込まれることもありましたけど、僕は特に嫌な感じはなかったです。

 ただ、「走りにくそうだな」と感じた時には、最初から打っていくこともありました。走れそうな時はだいたい1、2球目で走る傾向がありましたし、走れる時と走れない時の違いは見ていればわかりますから。

――追い込まれても嫌な感じはなかった、ということですが、篠塚さんは追い込まれてからのバッティングに自信があったということでしょうか。

篠塚 そうですね。追い込まれても、ランナーがセカンド(得点圏)に行ってくれれば集中力が高まるというか、気持ちが入りますし。なので、追い込まれてもいいから「松本さんが走ってから勝負しよう」という気持ちで打席に入ることがほとんどでした。

 2番に河埜和正さんが入って、僕が3番を打つ時期もありましたが、どちらかといえば3番のほうがやりやすかったですね(笑)。2番と3番でバッティングがそれほど変わるわけではないのですが、気持ちの面で多少は楽でしたよ。松本さんが塁に出れば、だいたい河埜さんが送ってくれて一死二塁、一死三塁のチャンスで回ってきましたから。決して、2番がやりにくかったわけではないですよ。
 
――松本さんが出塁すると、見る側にも「必ず走って成功する」という期待感がありました。

篠塚 成功率は高かったんじゃないですかね。特に76盗塁したシーズンは、失敗するイメージがありませんでした。相手バッテリーから常に警戒されているなかで走って、セーフになるんですからすごいですよ。1番に松本さんがいることで、初回から相手にプレッシャーをかけられる試合が多かった。松本さんの足は相手バッテリー、野手にもかなりプレッシャーをかけたと思いますよ。

(中編:青い稲妻」松本匡史のすごさ ホーナーの本塁打を「アシスト」した逸話も>>)

【プロフィール】

篠塚和典(しのづか・かずのり)

1957年7月16日、東京都豊島区生まれ、千葉県銚子市育ち。1975年のドラフト1位で巨人に入団し、3番などさまざまな打順で活躍。1984年、87年に首位打者を獲得するなど、主力選手としてチームの6度のリーグ優勝、3度の日本一に貢献した。1994年に現役を引退して以降は、巨人で1995年〜2003年、2006年〜2010年と一軍打撃コーチ、一軍守備・走塁コーチ、総合コーチを歴任。2009年WBCでは打撃コーチとして、日本代表の2連覇に貢献した。

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