南海トラフ地震で想定津波高34m! "日本一危険な町"から激変した高知県黒潮町の現在

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2024年09月13日 07:10  週プレNEWS

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日本最大級高さ22m、収容人数230人の佐賀地区津波避難タワー


8月8日、宮崎県日向灘で発生した地震に伴って、南海トラフ地震臨時情報「巨大地震注意」が発表された。かつて、南海トラフ地震発生の際は高さ34mの津波が来ると発表された高知県黒潮町は今回の発表を受けてどのような空気が流れたのか? また、日頃からどんな対策をしているのか? 現地に赴いて話を聞いてみた!

【写真】街中に設置された津波救命艇(シェルター)

*  *  *

■12年前に聞いた怒りや諦め

今年8月8日、宮崎県日向灘で発生した地震に伴い、気象庁は南海トラフ地震臨時情報の「巨大地震注意」を発表した。

南海トラフ地震というと思い出されるのが高知県黒潮町。東日本大震災を受け、2012年3月31日、内閣府の中央防災会議が南海トラフ地震での新たな津波想定高を発表した。その中で、日本で最も高い34.4m、それも地震発生から2分でやって来る"日本一危険な町"とされたのがこの黒潮町だった。


週プレは12年前の発表直後に黒潮町で取材を敢行。当時、町内の60代女性はこう語っていた。

「このことが新聞に載ってからは、みんな『もう終わりや』言うてます。家の周りを見渡してもどこにも高い建物なんかあらへんのに、逃げるとこなんかないわ」

海辺で飲食店を経営する60代の女性は怒りを込めてこう語っていた。

「『またうちに遊びに来て』なんて絶対言えなくなった。もう黒潮町は津波の怖い町で全国的に有名になってしまった。もう誰も遊びに来てくれんわ」

など、当時の町民からは、怒りと諦めの混ざった正直な気持ちが返ってきた。

■12年間で変わっていった町の意識

そんな町ゆえ、8月の「巨大地震注意」で不安な町民から問い合わせが殺到しているのでは?と気になり町役場に尋ねてみると。

「避難するのに支援が必要な約200人の方にはこちらから避難方法をどうするかなど何度も連絡を入れさせていただいていますが、一般町民から今回の南海トラフ地震臨時情報に関する問い合わせの電話はないですね。0件です」(黒潮町情報防災課)

え......。意外。町は静かなままなんですか?

「そういうことになりますね」(同課)

と落ち着いた声で答えてくれた。いったいこの12年間で町に何が起こったのか?


現地に赴き、松本敏郎町長と町の防災を担当する情報防災課の担当者に話を聞いた。

今回、役所への問い合わせがなかったそうですが。

「2012年の発表以降いろんな対策を講じてきた結果、地震が起きたとき何をすべきか、町に問い合わせなくてもみんなわかっているという証しだと思います」(松本町長)

ちなみに、松本町長はもともと町の職員。東日本大震災を受けて、町が情報防災課を2012年4月1日に新設した際の初代課長だ。そして4年前に町長に立候補。なんと全投票の97%を獲得して当選した。

防災課長に就任した後、何からやり始めたのか?

「まず、やらねばならなかったのは、あの発表を聞いた町民の中に蔓延(まんえん)し始めていた『もう死ぬしかない。避難しても一緒』という諦めや避難しない、つまり避難放棄の意識を変えていくことでした。

最初の発表の『34.4mの津波が2分で来る』という数字のインパクトが強すぎたのですが、国の2回目のより精度の高い、地域ごとの情報の発表では34mは町のわずか1ヵ所だけで、町のほとんどに来る津波はそこまで高くない。

到達時間も黒潮町の沿岸に到達するのが最短で8分。街中だと10分以上かかる所がほとんど。長い所では20分、30分かかる場所もあるんです。だから地震が起こってもすぐに避難すれば理論上は町民全員が助かるわけです。

また、過去に黒潮町を襲った津波の記録の古文書をひもといてみると、町は津波で破壊されても、津波が来るのが遅く全町民が避難できたため、ひとりも死んだ人はいなかったという記録もあるんです」(松本町長)


その考えをどのように広め、共有していったのか。松本町長に続けて聞いた。

「思想や理念を町民みんなが共有する言葉としてあったほうがいいということで、作ったのが『あきらめない。揺れたら逃げる。より早く、より安全なところへ。』というスローガンのような言葉でした。『あきらめない』という、避難放棄を絶対許さないとする町から一番届けたいメッセージ。それを最初に持ってきました」

そして、思想や理念が固まったら次に、それに従った具体的な"指針づくり"を手がけていったという。

「2012年に町の全職員、当時190人ぐらいが防災担当を兼ねることが決まってすぐ、地域でワークショップを開きながら、地域の住民と避難場所や避難ルート、それらが実際どの程度機能しているのかなどの洗い直し、そしてより良い避難場所や避難ルートを模索して、設定していったんです。そうしたワークショップを2ヵ月半の間に町内で200回近くやりました」


さらにこんな対策も。情報防災課担当者が語る。

「津波の到達時間から避難困難区域を割り出し、そこに住んでいる人が安心して避難できるように津波避難タワーを建設していきました。タワーの高さは新想定で出された最高の高さにプラス4mの余裕を持たせた高さに統一しています。

また、既存の避難場所から津波の想定到達時間までにお年寄りの足でも歩いて避難できる距離の円を描いて、どこの避難所からの円にも入らない空白地帯があれば、そこに津波避難タワーを造ることにしました。それで新たに6ヵ所のタワーを増やしました。

なので、理論上はすべての町民が正しい避難行動を取れば、全員安全な場所へ避難できて命が助かるということになっています」


ちなみに、町の津波避難タワーで一番高いのは佐賀地区という場所に建てられた高さ22m、230人収容可能なもの(記事冒頭の写真)。スロープが設けられて、階段での昇り降りが困難な車椅子の人でも上ることができる。ただ、34.4mよりも低いけど、大丈夫なのか?

「大丈夫です。先にも言いましたように、町内で34.4mの津波が到達するのは1ヵ所だけ。その後に発表された、新想定でのこの地域の津波の高さは18m。町では新想定に4mの余裕を持ってタワーを造っていますので、22mあれば最大の津波が来ても命が守れると考えています」(情報防災課担当者)


松本町長が続けて語る。

「さらにこの頃から学校でも避難訓練や防災教育を徹底してやってきました。すると、子供たちが家に帰ってきて、避難訓練や防災の話を家庭でするんですね。それも大きかった。子供が一生懸命訓練を頑張ってやっている中、『ワシは津波が来ても逃げん。死ぬんや!』と堂々と言うことがとても恥ずかしいと、町民の意識が変わっていったんです」

こうした町の雰囲気の変化は現在92歳の女性が町の文化展に出品した短歌に顕著に表れている。松本町長が短歌を見せながら説明してくれた。

「ひとつは34.4mが発表された直後、2012年秋に展示されていたもので『大津波 来たらば共に死んでやる 今日も息が言う 足萎え吾に』というもので意味は、大津波が来たら足の悪い私に息子がいつも言う。『母ちゃん安心せえ。津波が来たら一緒に死んであげるから』というもの。完全に津波への諦めです。

もうひとつは同じ作者が2年後の2014年に作って文化展に出展したものです。

『この命 落しはせぬと 足萎えの 我は行きたり 避難訓練』この意味は、足は衰えても命は落とさないぞ。そのためにも避難訓練に行くんだ。というもの。2年ほどで避難放棄、津波への諦めの気持ちが完全に払拭されているのがわかります」

このふたつの短歌は今、額に入れて町長室に飾られている。


さて、実際に町民にも今回の「巨大地震注意」について聞いてみた。30代の会社員が語る。

「特に、何か変わったとか、不安な気持ちになったとかはなかったですね。普段どおりに過ごしていました。そもそも、あんな注意とか出してもらわなくても、この町で暮らす以上ずっと南海トラフに注意して生活しているわけですから。そんなお上(かみ)から注意されたからといって何も変わらないですよ」

70代の男性もこう語る。

「それが出たからといってなんとも思わんかった。基本地震が起こらんことを祈るしかないんじゃき。来たらしょうがない。もう必死で逃げるしかないんじゃき。もうそういうのは慣れっこ。来たら逃げる。それしかないわな(笑)」

とやはり、備えやとにかく逃げる姿勢は若者からお年寄りまで浸透していることがうかがえた。

■防災が観光や産業に発展

さらにすごいことに、防災を町の日常にという町長の思いをはるかに通り越し、今や防災が町のウリの「観光名物」となってしまっているというのだ。

きっかけは2016年に完成した、先述の日本最大級高さ22m、230人が避難可能な佐賀地区の津波避難タワー。総額6億円をかけて完成したという見事な津波避難タワーを見てみたいとたくさんの自治体などから見学の申し込みが殺到した。

「自治体や教育機関からの申し込みがだんだん増えてきて、町の情報防災課の通常業務に支障が出るほどになってきたんです。

それならと、黒潮町観光ネットワークという一般社団法人に"防災ツーリズム"として、防災だけでなく町の魅力(ホエールウオッチングやカツオのたたきを食べることなど)もセットにしてPRしてもらったところ、すごく評判が良くて、またまた申し込みが殺到。今では年間2000人ぐらいが海で遊ぶことと防災の取り組みを学ぶことの両方を合わせたツアーで町を訪れています」


さらに、町の産業にも防災が利用されている。

「2012年に日本一危険な町にされてしまったことを逆手に取って、町の新しい産業をつくろうということで、災害時の備蓄品としても利用できる缶詰製造会社、黒潮町缶詰製作所を町の第三セクターとして立ち上げ、缶詰を製造しています。災害が起こったとき、町にはこの会社の缶詰は自然に備蓄されているわけで非常食になるんです。

さらに、避難所の食べ物で問題になるアレルギーにも対応。ここで作られる缶詰は8大アレルゲン不使用で誰もが安心して食べられるものとなっています」(松本町長)

この缶詰のマークをよく見ると三角旗の中になんと「34m」の文字が。2012年に発表された津波の高さが書き込まれている。34mは当時町民が恐れていた数字だったが、今はある意味、町の象徴のようになったと思えてくる。また、この缶詰は高知龍馬空港にも高知名物として販売コーナーが設けられていた。売り上げは年間1億円にもなるという。

最後に、あらためて松本町長に話を聞いた。

「日本一津波で危険な町といわれた黒潮町が今では逆に、日本一防災意識が高い町になったと思っています。みんなで一生懸命、どうすればひとりも命を落とさずにできるのかを必死で考え続けて、町民がみんなで情報共有もしてきたわけですから。もしかして今、津波が来ても、一番命が安全な町になっているかもしれませんね」

取材・構成・撮影/ボールルーム

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