【ラグビー】“ノビーと呼ばれた男”真下昇さん著書出版 5年前の19年W杯日本大会成功に尽力

1

2024年09月20日 06:01  日刊スポーツ

  • 限定公開( 1 )

  • チェックする
  • つぶやく
  • 日記を書く

日刊スポーツ

真下昇氏の著書「ラグビーと生きる」(創文企画)

19年ラグビーW杯日本大会の開幕から、20日で丸5年となる。


日本協会の副会長などを務め、組織委員会委員長としてW杯日本大会の成功に尽力した真下昇さん(85)がこのほど、自著「ラグビーと生きる ノビーと呼ばれた男のW杯招致回顧録」(創文企画)を出版した。


元トップレフェリーで87年12月には「雪の早明戦」として語り継がれる関東大学対抗戦の早稲田大−明治大の主審を担当。03年にはリーグワンの前身となるトップリーグの初代チェマンを務め、同年から「夢のまた夢だった」とW杯日本招致への思いを公の場で伝え始めた。


翌04年9月には、日本が11年W杯開催地に立候補。招致委員会実行委員長として世界を巡った。07年にはアジア協会選出の国際ラグビーボード(現ワールドラグビー)理事となり「アジアでW杯を」を合言葉に、各国の関係者との人脈を築いた。理事会後には会長らと食事を共にし「自分の顔と名前を売り込む絶好のチャンスだった」とカラオケも活用。11年大会はニュージーランドが開催地となったが、15、19年W杯招致委員会委員長も担って、当時日本協会の会長を務めた森喜朗氏(87)らと日本開催への活動を続けていった。


吉報が届いたのは09年7月28日。19年大会を日本で開催する願いがかない、19年W杯組織委員会理事としても舞台裏で奔走した。W杯招致への歩みを描いた自著の「あとがき」には「人間が1人でできることには限界がある。しかし、さまざまな人たちの協力を仰げば、実現できることの幅は大きく広がる」と記した。


かねて日本協会は再び自国でW杯を開催する意志を示し、最短で2035年の実現を目指している。真下氏は「私はこれまでの人生で、ものごとは最後まであきらめないことが一番大切だと実感した。そして、いつかは日本が世界のラグビーのリーダーになる日が来ることを願っている」と思いを寄せた。


◆真下昇(ましも・のぼる)1938年(昭13)12月6日、東京・千代田区生まれ。東京大空襲を機に45年に父の実家がある群馬・高崎市に移住。54年に高崎高へ入学し、ラグビー部に入部する。パスやステップが得意なCTBで全国高校大会4強。東京教育大(筑波大の母体)を経て、英国系商社のドッドウエル入社。31歳で現役引退し、レフェリーの道に進む。87年「雪の早明戦」、89年に日本代表が大金星を挙げるスコットランド戦などに携わり、92年から日本協会理事。02年に同専務理事に就任し、03年からトップリーグ初代チェアマン。05年に日本協会副会長兼専務理事となり、07年W杯フランス大会では日本代表団長。並行してW杯招致に携わった。22年には旭日小綬章受章。24年7月25日に自著「ラグビーと生きる ノビーと呼ばれた男のW杯招致回顧録」発行。

    ランキングスポーツ

    前日のランキングへ

    ニュース設定