『ホンダ・プレリュード(BB4型/N1耐久編)』ナカジマやクニミツが駆ったスポーツスペシャリティ【忘れがたき銘車たち】

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2024年10月16日 09:20  AUTOSPORT web

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1993年のN1耐久シリーズ第5戦第1回十勝ツーリングカー400km耐久レースを戦ったコカコーラプレリュード。土屋圭市と飯田章がドライブした。
 モータースポーツの「歴史」に焦点を当てる老舗レース雑誌『Racing on』と、モータースポーツの「今」を切り取るオートスポーツwebがコラボしてお届けするweb版『Racing on』では、記憶に残る数々の名レーシングカー、ドライバーなどを紹介していきます。今回のテーマは1992〜95年のN1耐久シリーズを戦った『ホンダ・プレリュード(BB4型)』です。

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 1980年代に“デートカー”として一世を風靡したホンダのスペシャリティクーペ、プレリュード。

 プレリュードは前述のデートカーというイメージもあって、あまり目立ったモータースポーツ活動をしてこなかった車両だった。それでも2代目のBA1型がグループA車両で争われていた全日本ツーリングカー選手権(JTC)に参戦するなど、少ないながらレーシングカーに仕立てられたりもした。

 今回紹介するN1耐久シリーズに参戦した4代目のBB4型プレリュードもそんなレーシングプレリュードの1台である。

 4代目のプレリュードは1991年に市販車がデビュー。3代目までよりもスポーツイメージを強めたコンセプトのクーペとして生み出された。

 先代よりも全長、ホイールベースともに短くなり、全幅が広がった4代目のなかでも、H22A型という2.2リッターVTECで200馬力を発揮するエンジンを搭載したBB4型がベース車に選ばれ、1992年のN1耐久シリーズで4代目のプレリュードはレースデビューを果たす。

 同年のN1耐久シリーズ開幕戦には、無限ワークスであったギャザズFALKENプレリュードをはじめ(開幕戦でのエントリー名はホンダ・プレリュード)、3台が排気量2001〜2500ccなどの車両が対象となるクラス2にエントリー。3台のうち1台こそ4代目の売りであったハイパー4WSを装着していたが、4WSなしが主にレースカーのベースとして選ばれていた。

 もともと市販車で1300kg近くある車重は、N1耐久車両では規定最低重量の1000kgを切るまでに軽量化されていたが、プレリュードはライバル車に比べて重量が重く、さらに装着できるタイヤサイズが、ひとつ下のクラスのホンダ・シビックと同じというハンデを背負っていた。それでもプレリュードは初戦から快走を披露し、最高峰クラスのBNR32型ニッサン・スカイラインGT-Rに割って入り、総合4位でチェッカーを受けた。

 仙台ハイランドが舞台となった第2戦からは、1991年にF1を引退した中嶋悟がチーム代表に専念し、1992年から新体制となったナカジマレーシングが走らせるPIAAプレリュードが登場した。

 このナカジマが走らせたPIAAプレリュードは、TIサーキット英田での第4戦で総合2位に入ると、ナイター12時間レースとなった筑波サーキットにおける第5戦でもR32 GT-Rに肉薄する強さを見せ、再び総合2位でフィニッシュ。ギャザズFALKENとともに“GT-Rキラー”として活躍を続けた。

 上記のように総合2位に2度入ったのはPIAAだったが、1992年のクラス2シリーズチャンピオンはギャザズFALKENが獲得。同クラスにはE30型のBMW M3もエントリーしていたいたが、それも寄せつけず、時に総合優勝をも狙えるほどの速さを参戦初年度から見せたのだった。

 翌1993年になると同年の第2戦仙台ハイランド戦から、前年に結成したばかりのチーム国光が、コカ・コーラをメインスポンサーにプレリュードでN1耐久シリーズへの参戦をスタート。

 チーム国光を率いた高橋国光はチーム監督に専念し、ドライバーは同年高橋とJTCでコンビを組んでいた土屋圭市と1993年のJTCでニスモの日鉱共石スカイラインをドライブしていた飯田章が務めるという体制でのエントリーだった(JTCとスケジュールが重なっていたラウンドでは大井貴之と渡辺明が代役を務め、6時間や12時間などの長距離レースでは土屋、飯田に加えて大井が第3ドライバーとして加わることもあった)。

 現在、スーパーGTにおいて長くホンダ陣営のトップを走り続けているチーム国光にとって、これがチームとして走らせる最初のホンダ車であった。

 そんな1993年のシリーズはチーム国光のコカ・コーラプレリュードも第5戦の十勝スピードウェイラウンドではクラス優勝も果たしていたが、クラスチャンピオン争いはナカジマのPIAAプレリュードを中心に展開。そのPIAAは最終戦までシリーズをリードしていたものの、同ラウンドでクラッシュによってリタイアとなり、ライバルのBMW M3に逆転でチャンピオンを奪われる結果となってしまった。

 その後、1994年にはナカジマレーシング、チーム国光ともにN1耐久には参戦せず。プレリュードの参戦台数も減ってしまうことに。同年のクラス王者は再びBMW M3の手に渡り、クラス区分が変更となった1995年にクラス3でチャンピオンとなったのち、4代目のプレリュードは一線から退くこととなった。

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