「ねえねえ、みんな。思い出してみて。遠足の前の日って、どんな気持ちかな?」
「うれしい……、楽しい……、待ちきれない」
「そうだね。じゃあ、次は、そんなワクワクする気持ちを込めて、いっしょに歌おうよ」
「ハーイ!」
童謡歌手・眞理ヨシコさん(85)の呼びかけに、元気に応じる子どもたちの声が館内に響きわたった。秋晴れに恵まれた10月11日の午後。福島県双葉郡広野町の中央体育館にて、翌日に開催される「ひろの童謡まつり」のリハーサルが行われていた。町の認定こども園「広野こども園」の園児たちは、ピアノの伴奏に合わせて体全体でリズムを取り始めた眞理さんと向き合い、再び大きな声で『あしたえんそく』を歌い始めた。
本当に短い眞理さんのアドバイスだったが、園児らの心を的確につかんだようで、先ほどとは打って変わって、その歌声には感情がしっかりこもっている。そんな光景に、周囲のスタッフたちから「さすが、うたのおねえさん」という声が上がった。
眞理さんは、今年、放送65周年を迎えたNHKの幼児向け番組『おかあさんといっしょ』の初代「うたのおねえさん」だ。就任以来63年間、常に日本の童謡界をリードしてきたカリスマは「子どもの心を育む童謡と、美しい日本語を絶やしてはいけない」という思いを胸に、精力的にコンサートなどを行い、歌を通じて日本中の親子とのふれあいを続けてきた。
最近も、ベストセラーになった彬子女王のエッセイ『赤と青のガウン』(PHP文庫)の中で、眞理さんが歌って第5回レコード大賞童謡賞を受賞した『おもちゃのチャチャチャ』について、《私と父の思い出の曲》とつづられていたのを読んだ人も多いだろう。翌日、童謡まつり本番のステージ。眞理さんは、『花のまわりで』を歌う前に、こんなエピソードを明かした。
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「私は小4のときに、この歌を作曲なさった大津三郎先生との出会いがあって、童謡を歌い始めました。不思議なご縁で、85歳になった今も、まだ歌い続けています。あっ、自分で年齢を言っちゃいましたね(笑)」
透明感あるソプラノの歌声で、今なお現役でステージに立ち続ける眞理さんの姿に、会場中から温かい拍手が湧き起こった――。
「軍人だった父の勤務先の岐阜県で生まれ、生後まもなく東京へ引っ越して、4歳のときに埼玉県蕨市に疎開しました。本当ならば童謡や唱歌もいちばん歌うような時期に、どんどん世の中が悪くなっていき、子どもの歌のレコードなども、ほとんど世間に流通しなくなっていました」
そう語る眞理さん。彼女が生まれた1938年(昭和13年)といえば、前年に日中戦争が始まり、日本中が不穏な空気に包まれていた。
「それでも、うちの両親は音楽好きで、夕食後に手回し蓄音機のレコードに合わせて、弟もいっしょに家族で歌っていました。当時、お話入りのレコードがあって、終わっても、私たちは聴き足りないんですね。すると、父は物語の続きを自分で作ってくれたんです。どうやら、お話の元ネタは落語だったみたいです」
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父親はもともとは電気技師、母親は医師の娘だった。
「栄養失調の子どもも多いような、食料も薬なども不足していた世の中。冬に私が肺炎になりかけると、母は鍋に湯を沸かして看病してくれました。その母も、若いころに歌を習っていたようです」
終戦後、小4で東京へ戻り、千代田区立永田町小学校へ転校。ここで、前出の恩師と出会う。
「音楽を教えていた大津先生が子ども合唱隊を作っていて、私もメンバーに抜擢されました。当時、学校から歩いていける場所にNHKの放送局があり、合唱コンクールの課題曲などを歌いました。
麹町中学校時代に戦後初めての本格的音楽映画『ファウスト』が日本にきて、父に連れられ有楽町の映画館で見たのですが、感動して、『クラシックというものをやってみたい』と思ったんです」
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その願いを持ち続け、都立駒場高校へ。
「当時、駒場は都立で唯一学区制がなく、音楽専科があったんです。芸術科音楽コースの定員はわずか20人で、さらに声楽専攻は6人だけ。入学後はまさに音楽づけ。だから、私は数学などは本当に基礎しかわからないの(笑)」
卒業後は、迷うことなく東京藝術大学音楽学部声楽科へ。
「入学後、歌のお仕事の声がかかるようになりました。1年生の夏休みには、お昼のワイドショー『奥さまスタジオ』で初めてアルバイトで歌ったり。銀座にあった日航ホテルのミュージックサロンにもシャンソンで出演しましたね」
同じころ、彼女の歌声を耳にしたNHKスタッフから、「新しい子ども番組を作るのでオーディションを受けませんか?」との誘いが。
「歌をきちんと歌える場所があるのなら、やってみよう」
新人の登竜門的企画だった『歌の広場』のニュー・ボイスに選ばれたのが大学3年。同時に『おかあさんといっしょ』(当時は『うたのえほん』)の「うたのおねえさん」のオーディションにも合格する。ところが、この快挙が、アルバイト禁止だった藝大で教授会を巻き込んだ大問題に。
「諦めかけていたとき、NHKからの嘆願書もあって、なんとか許可が下りました。そのときの大学側の条件が、『この先1年間の欠席と、他番組の出演は認めない』というものでした」
こうして’61年4月、初代うたのおねえさんに就任。これは、戦後始まったラジオ番組『うたのおばさん』のテレビ版で、放送は朝8時30分から40分まで。このわずか10分間の番組が、テレビ時代の到来と足並みをそろえ、日本中の子どもたちに元気と夢を与えていく。
「収録は1日4曲で、3日分ずつ撮っていました。だから、まず歌を覚えるのがたいへん。撮影自体も10分間カメラを回し続けて、時間ぴったりに収める生放送と変わらないスタイル。録画テープが当時は貴重品で、中断して無駄にすることは厳禁だったんです。
番組冒頭の『おはようございます』から『さようなら』まで、一気に収録が進んでいく。今、考えたらゾッとしますけど(笑)」
初めてのカメラ前での歌唱に戸惑う眞理さんに、ディレクターからは、「普段着の3歳の子が目の前にいると思って歌うように」との助言もあったが、
「きちんと歌を伝えながら、親しみあるおねえさんでいなければと考えすぎて、カメラの前で直立不動になったことも。また、変に歌に感情を込めすぎると、ディレクターさんから『子どもに迎合するな』と、安易な発想を叱られたりも」
数週間が過ぎたころだった。
「私がカメラに向かって、『あっ、きみきみ、今日、ゆでたまご食べたでしょ? お口のまわりに黄色いのがついてるわよ』と言ったら、放送後にお母さん方から『うちの子が思わず口元を拭ってました』と、たくさんお手紙が届いて。それを機に『子どもたちは私のブラウン管越しの言葉を、自分に話しかけているように受け止めてくれている』と感じられ、おねえさんとしての自覚が持てました」
番組からは、『おはながわらった』『あめふりくまのこ』など、のちに童謡のスタンダードとなる名曲が次々に誕生していく。
「この2曲を作曲した湯山昭さんはじめ、『うたのえほん』のテーマ曲の詞がサトウハチローさん、曲が冨田勲さんなど、作詞作曲だけでなく、ピアノの伴奏なども超一流の先生方ばかり。言葉のアクセントや鼻濁音を徹底的に鍛えられました。こうした出会いや、緊張感みなぎる収録を乗り越えられたことは、私の歌手人生の宝物です」
一方で、“おねえさん像”を守るためのテレビ局側からの要望はかなり厳しかった、と打ち明ける。
「本音を言えば、当時、まだ若かった娘としては、徹底した管理ぶりは少々きつかったですね(笑)。お給料もいただくようになって、ちょっと羽を伸ばそうと収録後の夕方にスタジオ近くの屋台でおでんを食べていたら、ディレクターさんから、『うたのおねえさんというのは、ああいうところでおでんを召し上がらないものです』と、お小言をいただいたり。もっと驚いたのは、収録でトチったら、私が帰宅する前に自宅の母に電話が入っていて、『お嬢さんは今日、2回NGをお出しになりました』と伝わってたこと」
「最初にこのお話をいただいたときは、私も若くて、子どもの歌を歌うことをそれほど深くは考えていなかったと思うんです。でも、毎日、歌い続けていくなかで、わずか10分間の番組でしたが、その子の人生の先々までつながっていく大切なものを今、歌を通して手渡していると、そんな思いを持つようになっていました」
そんな眞理さんは、デビューから63年がたったいまもコンサートなどで精力的に活動を続け、「声の続く限り歌い続けたい」と語る。「初代うたのおねえさん」は、これからも子どもたちの心を育んでいく――。
(取材・文:堀ノ内雅一)
【後編】「初代うたのおねえさん」眞理ヨシコさん、63年間練習を続ける“国民的童謡”へ続く
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