【WECジェントルマン物語vol.3】難民育ちが果たしたル・マン制覇。“アメリカ版長谷見昌弘”(?)も登場

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2024年12月05日 06:10  AUTOSPORT web

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2024年ル・マン24時間レースのLMGT3クラスを制したヤセル・シャヒン(91号車ポルシェ911 GT3 R LMGT3)
 11月初めごろにバーレーン8時間レースが行われ、熱い王座対決を見せたWEC世界耐久選手権。大荒れのなか、激しい順位争いとなったLMGT3クラスでは、各チームのブロンズドライバーが今季集大成の走りを見せるべく接近戦を繰り広げていた。そんな彼らが一体どんな人物なのか、皆さんも気になることだろう。

 前2回(第1回/第2回)に続く今回は、マクラーレン、フォード、ポルシェの面々をご紹介。このなかには、インタビューの最中、世界情勢に思いを巡らせてしまう存在もおり、世界選手権に挑む彼らならではのエピソードも飛び出した。どのジェントルマンも、今はレースをやっているぐらいだから平和な日々を過ごしているが、なかなかハードな人生を送って来た人物もいるのであった。

■毎年10000台のバイクを売ってWECドライバーに
●ジェームス・コッティンガム
#59 ユナイテッド・オートスポーツ/マクラーレン

 まず今回紹介するのは、マクラーレン720Sの59号車に乗っていたジェームス・コッティンガム。現在40歳のイギリス人だ。現代のレーシングカーを使ってのキャリアはまだまだ浅く、2024年が4年目。友人に「チームメイトとして乗って欲しい」と誘われて、英国GTにブロンズドライバーとして参戦したのが始まりだという。

 それまでの彼は、クラシックカーレースに出場しており、MGBでヒストリックカーレースを始めたのは2003年と、キャリアは20年以上になる。初めて乗った時から、MGBのスピードと、(細いタイヤによって)スライドする感覚に魅了されたそうだ。そこからMGBの選手権を皮切りに、ピーターオートが主催する選手権やマスターズに出場。フォードGT40やコブラをはじめ、多くの1950年代スポーツカーに乗ってきた。

 彼は子どもの頃から、レーシングドライバーになりたいと夢見て育ったそうで、それは父親の影響なのだという。父もレースを趣味にしており、コッティンガムは幼い時から父に連れられレースミーティングに参加していた。その頃のヒーローは「間違いなくスターリング・モスだね」とのこと(そこもしっかり50年代)。

 現在、参加しているWECでも、「ドライバーズブリーフィングに16人も元F1ドライバーがいるなんて、クールだよ」と喜びを隠さない。自身がドライブしているマクラーレンも、「乗りこなし方がよりヒストリックカーに近い」と言うことでお気に入りだ。ただし、WECに出ていることで、大変な部分も。仕事から離れる時間が増えてしまい(2024年は12週間も!)、レース活動とのバランスを取るのが難しいのだという。

 そんな彼の仕事は、両親が半世紀近く前に立ち上げた中古車売買会社の社長。前述のように父が趣味でレースをしていたのだが、それを仕事にしてしまおうということで、フェラーリに特化したビジネスをスタートしたのだ。売買だけでなく、レストアやレース参戦への準備など、現在面倒を見ているのは約500台も。オンもオフも大好きなクルマ漬けの日々を送っているのであった。

●ジョシュ・ケイギル
#95 ユナイテッド・オートスポーツ/マクラーレン

 2024年、マクラーレン720Sの95号車でステアリングを握ったのは35歳のイギリス人、ジョシュ・ケイギル。佐藤万璃音のチームメイトということで、こちらも憶えていただきたい存在だ。ケイギルがモータースポーツを始めたのは、6歳の時。父が買ってくれたバイクで走り始め、レースに魅了されたという。

 この頃、「夢は弁護士になることと口では言っていた」が、本心ではバイクのレーサーになりたかったのだと言う。もちろん、その頃のヒーローは、バレンティーノ・ロッシ。「そのロッシと同じWECで走っているなんて、アメージングだ」と感激している。

 さて、バイクの後、ケイギルが初めて乗った4輪のレーシングカーは、VWゴルフのカップカー。初走行はドニントン・パークだった。そして、ゴルフカップを皮切りに、ドイツのシロッコカップやアウディTTカップを経て、イギリスのポルシェ・カレラ・カップへ。さらに、ブランパンや英国GT、LMP3カーでELMSやミシュラン・ル・マン・カップにも出場している。

 そして、2024年は満を持してWECに参戦を開始。現在乗っているマクラーレンは、乗り味がプロトタイプに近いと感じているそうだ。彼は現所属チームのユナイテッド・オートスポーツからLMP3のレースに出場してきたのだが、その時に培ったドライビングスキルが、マクラーレンには活かせるのだという。

 そんなお気に入りのクルマで世界中のサーキットを巡るのは楽しくもあるのだが、彼にとっては時差調整が大変とのこと。場所によって、8時間や10時間という時差があり、短い時間でピークパフォーマンスを出すところまで持っていくのはなかなか難しいそうだ。WECの場合、暑い場所でのレースも多く、それも乗り越えるべき困難のひとつだという。

 さて、そのケイギル、普段の仕事はクルマの売買。元々は家族の仕事を手伝っていたが、今では『ケイギル・コレクション』という自分自身の会社を立ち上げ、その仕事に邁進している。それだけでなく、レースに向けてのトレーニングやシミュレーターなども精力的に行っており、とても忙しい日々を過ごしているそうだ。

●ライアン・ハードウィック
#77 プロトン・コンペティション/フォード

 お次に紹介するのは、プロトン・コンペティションのフォード・マスタング77号車をドライブしたライアン・ハードウィック。彼は米国・ジョージア州アトランタ出身の37歳。彼も、マクラーレンに乗っていたケイギル同様、モータースポーツとともに育ってきた。

 6歳の時、最初に乗り始めたのは、日本製のダート用バイク。そこからヤマハ、ホンダ、カワサキといった日本のバイクに乗って地上でレースをしてきた。

 それと並行して、プロとしてジェットスキーのレースも開始。ヤマハやカワサキの契約ライダーとして、世界中の水の上も滑走してきたそうだ。20歳の時にはヤマハとともに世界タイトルを獲得。全米チャンピオンにもなっている。バイクレースに関しては、今でも趣味で続行。ふたりの息子とともに参戦しているそうだ。“アメリカ版長谷見昌弘”状態?

 一方、4輪レースを始めたのは2015年。最初に乗ったのは、ポルシェ・ケイマンGT4だった。その翌年には、ランボルギーニ・スーパートロフェオでシリーズ戦に挑戦を開始。同シリーズには複数年参戦し、全米チャンピオン、さらには世界チャンピオンにもなっている。

 その後、IMSAに出場し、これまでに2回、シリーズクラス2位となった。それと同時に、GT4のIMSAミシュラン・パイロット・チャレンジや、GTWCにも参戦。昨年はヨーロッパに舞台を移して、ELMS(ヨーロピアン・ル・マン・シリーズ)のチャンピオンに。デイトナ、セブリング、スパ・フランコルシャンでも優勝するなど、ピカイチの腕を持つジェントルマンだ。そんなハードウィックにとって、ゴールはル・マンのクラス優勝だという。

 そんな彼の本業は、バイクのディーラー。もともとバイクのライダーだったため、日本のバイクメーカーとは関係が深く、友人とともに立ち上げた会社で毎年10000台以上も売っているのだそうだ。

 バイク育ちということで、「ロッシと一緒のレースで走れるのはクール。彼はバイクの世界では最大のスターで、僕も大ファンだった」と笑うハードウィック。今はライバルとしてロッシと戦っているため、サーキットでは挨拶を交わすぐらいだというが、いつか両者ともに選手から引退したら、色々なことをお喋りしてみたいそうだ。

■サーキットのない国で耐え続けた“飢え”
●クリスチャン・リード
#88 プロトン・コンペティション/フォード

 プロトン・コンペティションのフォード・マスタング88号車にレギュラードライバーを務めたのは、ジョルジョ・ローダ。30歳のイタリア人だ。しかし、彼は2024年WECのレースを一部スキップ。富士にも参戦しなかった。代わりに富士でステアリングを握ったのは、チームオーナーでもあるクリスチャン・リード。45歳のドイツ人だ。

 実は、リードは昨年いっぱいで、レーシングドライバーからの引退を表明していたが、ローダの出られなかったレースで現役復帰。オーナーとの兼業で非常に忙しくなったが、ブランクを感じさせない走りを披露した。そんなリードの本業は、運輸業。父・ジェロルドが立ち上げた会社を継いでいる。現在、トラックは200台ほど保有。5キログラムの物から150トンのものまでクルマや船を使ってあらゆるものを運んでいるという。“ドイツの杉崎直司(日本の元レーシングドライバーで、現在は運輸会社の代表取締役会長)”とお呼びしていいですか?

 一方、レースに関してだが、リードも父の影響で走り始めたひとりだ。父が1995年にレースを始めると、翌年にはプロトン・コンペティションを立ち上げたが、その当時からリードもクルマとエンジンが好きで、自分もレースをやりたいという希望を持っていた。しかし、「母を説得するのが大変だった」ということで、1999年、20歳の時にようやく許しを得て走り始めた。

 そこからは父と組んで、FIA GT選手権のGT2クラスなどに参戦していた。その後、ELMSに参戦を開始。WECが始まると、初年度から選手権の一員となった。ル・マン24時間レースには、2006年に初参戦。2018年にはクラス優勝を果たしている。

 このレーシングスピリットは3人の息子たちにも引き継がれ、現在長男はLMP2でELMSやアジアン・ル・マンに参戦。次男はスペインF4、三男はカートをやっている。将来はチーム代表として、息子たちを走らせる予定。父がオーナー、息子3人が組んでル・マン出場とか実現したらすごい。

 あ、ちなみにバーレーンで走っていたローダのことは、来年チャンスがあれば取材するので、今回はご容赦を。

●ヤセル・シャヒン(正しい発音はヤッサー・シャヒン)
#91 マンタイEMA/ポルシェ

 さて、最後に紹介するのは、2024年に強さを見せたポルシェ勢。まずは第4戦ル・マンでクラス優勝を果たしたマンタイEMAの91号車をドライブするヤッサー・シャヒンを紹介しよう。この人の人生はとてもドラマチックだ(今回イチオシ!)。

 現在48歳の彼は、オーストラリアとパレスチナの両国籍を有しているが、それは彼の祖先がパレスチナ出身だから。自分のルーツがあるのはパレスチナということで、今でも国籍を保持しているのだ。1940年代、イスラエル建国前後の混乱のなか、一族はパレスチナから徒歩でレバノンに逃れる。そのレバノンでシャヒン自身、難民として生まれたのだという。その後、シャヒンが7歳の時に、家族は揃ってオーストラリアへと渡った。この辺りの詳細は、次回、チャンスを作ってまた話を聞きたいところだ。

 子ども時代にオーストラリアに渡ったということで、シャヒンはV8スーパーカップやF1をTVで観戦し、当時はアイルトン・セナが好きだったという。しかし、自身がレースを開始したのは37歳の時。背が高いので、学生時代はバスケットボールをしていたというが、その後はビジネスに忙しかった。

 彼が22歳の時、父や兄弟とともにゼロから立ち上げたビジネスは小売業。オーストラリアでOTRというコンビニ・チェーンを立ち上げて、最後は100店舗にまで拡大、7000名を雇用するまでになる。最近は日本でも見かけるが、ガソリンスタンドとそれに付随するコンビニみたいな感じのお店だったそうだ。しかし昨年、そのビジネスを全て売却。現在は、コンビニと並行して行なっていた不動産ビジネスとOTRのコンサルタントをしている。

 そのビジネスが軌道に乗った2015年、シャヒンはいよいよレースを始めるチャンスを得て、走り始める。ラディカルが最初のレースカー。次にポルシェのカップカーに乗り始めた。その後、アウディで3年間走り、アジアのワンメイクでチャンピオンに。オーストラリアではアウディを駆り、GTWCオーストラリアで2回チャンピオンを獲得するなど、みるみる頭角を表した。

 そして、2024年からWECに挑戦を開始。ルーキーイヤーながらもル・マン24時間レースを制している。(すごっ。)そのレース活動の過程で、ビジネスに関しても、モータースポーツに関与を強めた。実は、シャヒンはオーストラリア南部のタイレム・ベンドにある世界で2番目に大きなパーマネントサーキット、シェルVパワー・モータースポーツ・パーク(The Bendモータースポーツ・パーク)のオーナーなのだ。

 レーシングスーツやマシンにも『The Bend』とロゴマークが付いているのはそのためだ。このコースは、かつて三菱のテストコースだったのだが、シャヒンが購入して、2018年にはコースを始めとする施設をリニューアルしてオープン。そのサーキットでは、オーストラリアのスーパーバイク選手権やGTWCオーストラリアを開催しているが、将来的にはWECも招聘したいとのことだ。

 また、彼は日本が大好きで、第6戦富士の前には息子さんとともに1週間、日本に滞在。今、12歳の息子さんは、東京で“武士の修行コース”も体験したそうだ。それだけに、「プロモーターさえ決まってチャンスがあれば、日本のレースもオーストラリアで開催できればいいね」とのこと。自身も「スーパーGTに出場してみたい」ということだった。聞きましたか? 日本のチームオーナーの皆さん。ご興味があれば、ぜひコンタクトを。

●アレキサンダー・マリキン
#92 マンタイ・ピュアレクシング/ポルシェ

 今回のジェントルマンドライバー紹介で最後にご登場願うのは、富士でドライバータイトルを決定したマンタイ・ピュアレクシングの911GT3、92号車をドライブしたアレキサンダー・マリキン。彼は現在、英国在住だが、保有するパスポートはカリブの西インド諸島にある小さな島国であるセント・クリストファー・ネイビスだ(皆さん、場所はグーグル先生にお尋ねください)。

 しかし、別に彼がそこで生まれ育ったわけではない。実は彼はベラルーシ生まれのベラルーシ育ち。ただ、ベラルーシのパスポートだと、他の多くの国に行くのにビザが必要で、仕事の都合を考えるとそれでは不便だということで、セント・クリストファー・ネイビスのパスポートを取得したのだ。

 マリキンの両親はベラルーシに住む普通の勤め人。そのもとで育ったマリキンは、10歳の頃からTVでF1を見ていた。マクラーレンに乗るミカ・ハッキネンに憧れていたという。その中継のなかで、コメンテーターがクルマの動きについて解説しているので、それがどういうことか理解するのに何回も映像を見直していたそうだ。バトルの駆け引きについても、テレビ放送で学んだという。

 ただ、ベラルーシにサーキットはなく、カートに乗せてもらえるほど両親に余裕はない。他の子どもと同じように、クルマの玩具は買ってもらえるが。だからこそマリキンはレースに対して“飢え”のようにものを感じて育ったのだと言う。その後、17歳で高校を出た後、彼はPCに関する教育を受け、ソフトウェア開発会社で働き始める。それを経て、26歳の時には、アプリ開発会社を自ら立ち上げた。

 数独などを始めとする、さまざまなゲームアプリを作っているそうだ。そのアプリビジネスをさらにスムーズに進めるため、5年前には英国に移住。メタやグーグルのイギリス支社がロンドンにあって、度々訪れなければならないからだ。そして、このイギリス移住をきっかけに、カルチャーショックを受ける。

 ロンドンには多くのレース好きがいて、英国内にはサーキットがいくつもあり、素晴らしいクルマも揃っていたのだ。だからこそ、最初は競技をするよりも何よりも、とにかく乗ってみようとサーキットに足を運んだのだ。その走りを見た友人から「才能があるからレースに出た方がいいよ」と言われ、ポルシェ・ケイマンカップに初出場したのが2021年。わずか3年前のことだった。

 そのケイマン・カップでシリーズ2位になると、モータースポーツ熱はますます高まり、翌年からはGT3にスイッチ。GTWCを経て、2024年からWECに初参戦すると、あっという間に初戴冠を果たした。周りのチームからは“最速ジェントルマンドライバー”とも呼ばれている。

 彼によると、それは「プロと同じアプローチをしているから」とのこと。彼の場合、コーチについて、各コーナーで少しずつタイムを削って行くというやり方はせず、普段からABSもトラクション・コントロールもないカレラのカップカーで走り込みを行っている。しかも、飛び出さないようマージンを持って走るのではなく、限界を超えてスピンする所まで攻めるそうだ。そのデータを見て、どうしたらミスせず走れるかという助言を得ながら、タイムを削って行くという。

 また、聞きたいことがあれば、夜であってもエンジニアに連絡。レース前後、また現場でのミーティングも入念に行っている。少年時代の飢えがあるからこそ、ステアリングを握った時には、パフォーマンスを見せたい。つねにそういう気持ちを持っているそうだ。

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