伊東勤が語るマスク越しに見た名プレーヤー〜投手編(前編)
22年間の現役生活で、リーグ優勝14回、日本一8回と「西武黄金時代」の正捕手としてチームを支え、数多くの投手を育ててきた伊東勤氏。そのなかで特に印象に残ったピッチャーは誰だったのか? ベスト5を挙げてもらった。
【こんなすごい投手がいたんだ......】
── まずバッテリーを組んだなかで、一番印象深い投手は誰ですか。
伊東 真っ先に挙げたいのが、郭泰源さんです。彼は1984年のロス五輪で、台湾の銅メダル獲得に貢献しました。その活躍もあって、MLBのロサンゼルス・ドジャースが獲得を狙っていたようですが、当時管理部長だった根本陸夫さんが獲得に成功。翌85年、23歳で西武に入団しました。「こんなすごい投手がいたんだ......」と、初めてボールを受けた時の衝撃は今でも忘れられません。
── 具体的にどのあたりがすごかったですか?
|
|
伊東 "オリエンタル・エクスプレス"の異名をとったストレートは、下から浮き上がってくるような軌道で、160キロ近く出ていたと思います。さらにカットボール、スライダー、ツーシーム、シンカーなど変化球も多彩で、コントロールもすばらしい。私のサインどおりに投げてくれるのですが、ギアの入れ具合は自分で調整していました。自分で試合をつくることができる投手でしたね。
── 郭泰源投手は、来日間もない6月にノーヒット・ノーランを達成しました。
伊東 「あんなスライダーは見たことがない」という対戦チームの監督や打者は多かったです。当時からいま現在まで好投手はたくさん存在しますが、私のなかで実力は今でも郭泰源さんがナンバーワンだと思います。
── その郭泰源さんの次にすごかった投手は誰ですか?
伊東 (工藤)公康かな。何がすごいかと言ったら、入団当初はストレートとカーブの2つしか球種がなかったのに、それでも打者を抑えることができた。7割がストレートで、カーブは2階から落ちてくるように落差が大きくて鋭かった。彼のバロメーターは高めのストレートで、そこを打者が振ってくれる時は好調でした。それに同じ軌道からカーブを落とすこともできたので、球種は少ないですが簡単に打ちとっていましたね。
|
|
── 工藤投手は「最高勝率」のタイトルを4度獲得したように、負けない投手というイメージがありました。
伊東 打ち込まれた記憶がほとんどありません。他球団に移籍してから、スライダー、チェンジアップ、フォークを覚えたようですが、私とバッテリーを組んでいた頃は2つの球種だけで勝っていました。あらためてすごい投手だと思いますね。
【魔球を武器に驚異の8連続奪三振】
── 3番目の投手は誰でしょうか。
伊東 シオ(潮崎哲也)です。1989年のドラフトは、野茂英雄が8球団から1位指名を受けるなど、彼に人気が集中しましたが、そんななか西武はシオを一本釣りしました。シオのシンカーは中指と薬指の間から抜いて投げる独特のもので、腕を強く振って投げているのにボールがなかなか来ない。打者はタイミングを取るのに苦労していました。
── 一度浮き上がって沈む"伝家の宝刀"でした。
|
|
伊東 思い出すのが、プロ1年目(1990年)の7月4日のオリックス戦。当時のオリックスは門田博光さん、松永浩美さん、熊野輝光さん、藤井康雄ら、左の強打者が揃っていたのですが、8連続三振を奪うなど圧倒的なピッチングを見せつけました。シオのシンカーは、まさに魔球でした。
── 次はどの投手になりますか。
伊東 石井丈裕です。早稲田実業時代は荒木大輔の控えで、法政大時代も控え。社会人野球のプリンスホテルに入ってから頭角を現し、野茂や潮崎たちとともに1988年のソウル五輪銀メダルに貢献しました。特に1992年シーズンは絶好調で、15勝3敗でMVP、沢村賞、最高勝率など、多くのタイトルを獲得しました。またヤクルトとの日本シリーズでも、第3戦と第7戦で完投勝利。胴上げ投手に輝き、シリーズMVPも獲得しました。
── 石井投手は、1988年のドラフトで渡辺智男投手に続くドラフト2位入団でした。石井投手はどこがよかったのですか。
伊東 郭泰源さん同様、カットボールを持っていました。ギリギリまでストレートの軌道で、インパクトの直前にギュッと曲がる。だから、打者は芯を外される。それにコントロールも抜群によかった。
捕手は相手打者を研究して狙い球を外すことが多いのですが、郭泰源さんや石井の場合はコントロールがいいから、相手のことを考えず自分たち主導で組み立てができた。リードに専念できましたし、捕手に気持ちの余裕を与えてくれる投手でしたね。あと石井は、ウイニングショットとしてパームボールがあり、このボールも絶品でした。
つづく>>
伊東勤(いとう・つとむ)/1962年8月29日、熊本県生まれ。熊本工高3年時に甲子園に出場。 熊本工高から所沢高に転入し、転入と同時に西武球団職員として採用される。 81年のドラフトで西武から1位指名され入団。強肩と頭脳的なリードでリーグを代表する捕手に成長し、西武の黄金時代を支えた。2003年限りで現役を引退。04年から西武の監督に就任し、1年目に日本一に輝く。07年限りで西武の監督を退任し、09年にはWBC日本代表のコーチとして連覇に貢献。その後も韓国プロ野球の斗山のコーチを経て、13年から5年間ロッテの監督として指揮を執り、19年から21年まで中日のコーチを務めた