【東京・原宿発】取材クルーが社長室にお邪魔すると、藤倉さんは立ったまま、にこやかに私たちを迎えてくれた。重厚な社長の椅子に座っておられるかと思いきや、いつも立ったまま仕事をしているとのこと。そのほうがパフォーマンスが上がるのだそうだ。エンタメ業界というと時間が不規則でハードワークというイメージがあるが、藤倉さんは最高のパフォーマンスを発揮できるよう、スタッフに対しても心と体の健康の大切さを説く。それが新たな才能を発掘するための力となるからだ。
(本紙主幹・奥田芳恵)
その他の画像はこちら2024.12.13/東京都渋谷区のユニバーサルミュージックにて
●予想外だった社長就任のオファー
奥田 藤倉さんは46歳という若さでユニバーサルミュージックの社長兼CEOに就任されましたが、入社当初から経営者になろうと考えておられたのですか。
藤倉 まさか。そんなことはまったく考えていませんでした。この会社に入って、最初はテレビや舞台などで活躍するアーティストたちと一緒に働けることにただワクワクしていたんです。
もちろん、この世界も華やかな表舞台ばかりではありませんから、現場で働いているうちにアーティストの強い思いも苦悩もわかるようになってきます。そのアーティストを羽ばたかせる力になり、たくさんのお客さんを喜ばせたいと思うようになっていったんです。その気持ちは経営に携わる今でも変わっていません。
奥田 やはり、いわゆる経営というよりは、まずはクリエイティブなのですね。ということは、社長就任についてはあまり想定されていなかったのでしょうか。
藤倉 そうですね。想像もしていませんでした。1992年に入社したのはポリドールというレコード会社で、当時は富士電機の子会社でした。つまり私は国内系の企業に入ったのですが、その後、業界の合従連衡が進んで、ユニバーサルミュージックという外資系企業に変わりました。そのため、現在のグローバル本社はロサンゼルスにあります。私は歴代社長のなかで一番英語力がありません。だから、社長に指名されたことはとても意外でしたね。
奥田 迷いはありませんでしたか。
藤倉 私は2014年1月に社長に就任したのですが、グローバル本社のナンバー2であるCOOから「来年から社長をやってほしい。準備はできているか?」と打診があったのが13年9月でした。邦楽レーベル(ユニバーサルシグマ)のトップを務めていたものの、それは国内で作品や才能を見つける仕事であり、お話ししたように英語も流暢でなかったことから、どうしようかと考えましたね。
奥田 決め手はどこにあったのでしょうか。
藤倉 「社内に他の候補はいないから、準備ができていないのなら外部で候補を探す。3日ほど日本にいるから、それまでに考えてくれ」と言われたのです。
奥田 まさに決断を迫られたのですね。
藤倉 このとき、音楽業界のことを知らない「経営のプロ」を招いてアーティストや社員たちが幸せになれるのかと考えました。経営者になる準備はできていないけれど、それならば自分がやりたいと思い、そのオファーを受ける決心をしました。実質、一日で決断しました。
奥田 もしかしたら「外部で候補を探す」というのは脅し文句だったのかもしれませんね。でも、社長になられてからいろいろご苦労があったのではないですか。
藤倉 わかっていれば、あらかじめ海外拠点のトップたちともっとつながりを強めたり、経営者として必要な財務、人事、法務などの実務を学んだりしていたと思います。また、12年10月にEMIミュージックジャパン(当時)と合併したばかりというタイミングだったため、異なる組織を融和させるという大事な仕事もありました。
●人に囲まれて楽しい仕事がしたいと幼い頃から思っていた
奥田 ところで、幼い頃はどんな仕事に就きたいと思っていましたか。
藤倉 小学生の頃は、具体的に何になりたいというよりは、人に囲まれて楽しい仕事をしたいと思っていました。
奥田 人に囲まれる……?
藤倉 というのは、私は一人っ子で、両親は共働きでした。それで、小学校は3回転校しているんです。当時はそれほどさびしいと感じていませんでしたが、やはりさびしかったのだと思います。だから、人と一緒に何かをすることを求めたのでしょう。
奥田 当時は、どんなタイプのお子さんだったのでしょうか。
藤倉 転校が多かったこともあり、人の関心を引くために面白いことをしたりして、目立とうとしていましたね。
奥田 転校して、新しい学校で友だちをつくるのも大変です。
藤倉 だから、初めて会った人たちと仲良くなる努力をしたんだと思いますね。もちろん、当時は意識していないのですが、本能的にこの時期から人と仲良くする術を身につけていったのですね。
奥田 なるほど。図らずして子どもの頃からコミュニケーション能力を磨いていったというわけですね。勉強のほうはいかがでしたか。
藤倉 親から「勉強しなさい」と言われたことはありませんでした。
奥田 ということは、言われなくても勉強する子だったのですね。
藤倉 いや、全然ダメでした。もっと勉強しておけばよかったですね。当社の役員はとても優秀なプロフィールの持ち主ばかりで、かえって私が勉強させてもらっているのですが、いまでも、英語力も論理的な思考力も足りないと感じています。
奥田 とても控えめな自己評価をなさっていますが、経営トップを務められるまでのプロセスで、何か転機となることはあったのでしょうか。
藤倉 30代の頃、先々代の社長・会長を務められた石坂敬一さんから声をかけられたことがありました。私が松田聖子さんの担当をしていたときで、彼女のディナーショーのステージが終わった後、「ちょっと飲もうよ」とバーに誘われたのです。石坂さんはビートルズを日本に広めたすごい方で、東芝EMIの専務から当時の日本ポリグラム(現ユニバーサルミュージック)に移られたばかりの頃のことでした。石坂さんは、その後、日本レコード協会の会長を務められたり藍綬褒章を受章されたりした業界を代表する経営者でした。
奥田 30代の藤倉さんにとっては、だいぶ上の方ですよね。
藤倉 私のことは、若手で騒がしいやつがいる(笑)、という認識でご存じだったようなのですが、そこで石坂さんは「おまえは人から好かれるし、人を引き付ける能力もあるが、まったく知性がない。もっと勉強しろ」とおっしゃったんです。
奥田 「まったく知性がない」とは手厳しいですね。
藤倉 でも、ここで石坂さんに言葉をかけてもらったことが、一つの大きな転機になったことは確かですね。(つづく)
●「一期一会」
藤倉さんは言う。「これまでの経験から、エンタテインメントビジネスは人間関係が基盤となっていると感じており、アーティストや取引先、社員との一瞬の出会いが、その後長く続く仕事の関係に発展することがある。このことを常に心に留め、人とのつながりを大切にするようにしている」と。
心に響く人生の匠たち
「千人回峰」というタイトルは、比叡山の峰々を千日かけて駆け巡り、悟りを開く天台宗の荒行「千日回峰」から拝借したものです。千人の方々とお会いして、その哲学・行動の深淵に触れたいと願い、この連載を続けています。
「人ありて我あり」は、私の座右の銘です。人は夢と希望がある限り、前に進むことができると考えています。中学生の頃から私を捕らえて放さないテーマ「人とはなんぞや」を掲げながら「千人回峰」に臨み、千通りの「人とはなんぞや」がみえたとき、「人ありて我あり」の「人」が私のなかでさらに昇華されるのではないか、と考えています。
奥田喜久男(週刊BCN 創刊編集長)
<1000分の第365回(上)>
※編注:文中に登場する企業名は敬称を省略しました。