▲作家の島田明宏さん【島田明宏(作家)=コラム『熱視点』】
10万人ほどが犠牲になった東京大空襲から、今週の月曜日、3月10日で80年。そして翌11日、関連死を含め2万人ほどが亡くなった東日本大震災から14年が経った。
私を含め、80年前には生まれていなかった人間の多くにとって、東京大空襲は歴史上の出来事として、「過去の世界」に封印されてしまっている。
では、東日本大震災はどうか。14歳未満の、震災を体験していない世代にとっては歴史上の出来事という感覚なのか。いや、彼らより上の世代、すなわち語り部になる世代のほうが圧倒的に多いうちは、簡単には「過去の世界」に封印されないはずだ。が、このまま20年、30年と月日が流れると、東京大空襲と同じように、遠い出来事となってしまう。
これまで、東日本大震災で被災した多くの人が「忘れないでほしい」と口にするのを聞いてきた。災害はまた必ずどこかで起きるのだから、自分たちの痛みを単なる痛みとして終わらせず、次への備えや教訓にしてほしいという思いがあるのだろう。
14年というのは長い。私が被災馬取材のため初めて福島県南相馬市に行ったのは14年前の5月だった。事故のあった東京電力福島第一原子力発電所から30キロ圏内の緊急時避難準備区域だったので、街に小さな子供たちの姿がなく、多くの自衛隊車両が走っていた。すれ違う一般車に乗っていた人たちは、放射能対策で、みなマスクをしていた。津波にさらわれた海辺に行くと、漁港のような匂いがした。海から数キロ離れたところでも蠅や蚊が多かった。
あれから数年間、私は東京電力福島第一原子力発電所のことを、現地の人たちに合わせて「イチエフ」と呼んでいたのだが、いつの間にか言わなくなった。「被災三県」という言葉もあまり聞かなくなった。それがどの三県を指すのかわからない、という人も多いのかもしれない。
「忘れない」ということに関して、競馬はとても大きな助けになる。
2011年は、オルフェーヴルが史上7頭目のクラシック三冠馬になった年だ。同馬が勝ったスプリングSが阪神で行われたのも、皐月賞の舞台が1週遅れの東京になったのも、東日本大震災の影響で中山での開催が中止になったからだ。
オルフェーヴルが勝った菊花賞を、私は、福島競馬場の馬場内投票所で見た。その前日、郡山の借り上げ住宅にいた相馬野馬追の騎馬武者である蒔田保夫さんを訪ね、震災の津波で亡くなった長男の蒔田匠馬君について話を聞かせてもらったのだった。
福島競馬場はスタンドの天井が広範囲にわたって崩落するなど大きな被害を受け、2011年の開催はすべて中止されていた。それでも、震災翌月の4月下旬には払戻しを、6月下旬からは馬場内投票所でレースを限定した馬券発売を再開させていた。それと並行し、スタンドの復旧工事や、除染のため芝コースを張り替えたり、ダートコースや馬道の砂を入れ替えたり、樹木を剪定したり、壁や床、側溝などを高圧洗浄するなどの作業も行われた。工費は50億円ほどを要したという。
私が行ったときは、これから入れる新しい砂が積まれ、その上に「青森産」と記された紙の貼られたプラスチックのケースが置かれていた。
そうした努力の甲斐あって、翌春、福島競馬場が1年5カ月ぶりの開催を迎えたころ、場内の放射線量は同時期にNHKが発表した福島市の空間線量より大幅に低くなっていた。
話をオルフェーヴルの菊花賞に戻すと、福島の馬場内投票所のモニターで見たオルフェーヴルの豪快な末脚と、勝利騎手インタビューを受ける池添謙一騎手の、安堵感と、これからも重責がつづく緊張感の入り混じった表情は、今もよく覚えている。私と一緒にモニターを見上げていた福島の人々の多くは、特に嬉しそうだったわけでも、悔しそうだったわけでもなく、ただ黙って池添騎手の言葉に耳を傾けていた。その様子を見て、こういうときこそ競馬のようなレジャーは必要なのだとあらためて思った。
オルフェーヴルのおかげで、私は震災に関するいろいろなことを忘れないというか、当たり前に忘れられなくなっている。
前述した蒔田匠馬君は20歳で亡くなったので、生きていれば34歳である。そう考えると、君付けで呼ぶのは失礼なのかもしれないが、私のなかでは、いつまでも20歳の若武者だ。20歳3カ月で最年少ダービージョッキーとなり、23歳で世を去った前田長吉と同じく、「過去の世界」に封印されているはずなのに、忘れることはない。
来年の3月11日は東日本大震災から15年の節目である。現時点ですでに私の相馬野馬追取材は、「被災馬取材」ではなく、「東北の馬事文化の取材」となっているのだが、そうした節目にスタート地点を再認識する、ということを繰り返していくのだと思う。