「番組の“いじり”はイジメだと思ってた」46歳の元吉本芸人が90年代のお笑い業界に思うこと

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2025年03月18日 15:50  女子SPA!

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お笑いコンビ・アップダウンのメンバーである竹森巧さん。若手時代は深夜番組『吉本ばかな』(日本テレビ系)で、ガレッジセール、ライセンス、シャンプーハットとユニットを組んで人気を博し、作詞作曲をした楽曲「ぬか漬けのうた」がNHK『みんなのうた』で放送されるなど、幅広い活躍をしていました。

そんな彼が現在、ライフワークとして取り組んでいるのが「戦争の歴史を伝える活動」です。2024年11月19日には、著書『桜の下で君と 特攻隊の真実を伝えるお笑い芸人の物語』(東京ニュース通信社)を発売し、自身の制作した二人芝居『桜の下で君と』が生まれるまでの過程や芸人としての人生を綴っています。

かつては吉本興業に所属しM-1グランプリ 準決勝に4回出場するなど、テレビ業界でも高い評価を受けていたアップダウン。そんな彼らがなぜ活動の場を移したのか。前編の今回は自身の活動の原点でもある「お笑い」や「芸人」に対する考えを聞かせてもらいました。

◆「本当はなりたくなかった」それでも芸人になった理由

――本書の中で本来は「芸人になりたくなかった」と語られていましたね。では、どのように芸人人生がスタートしたのでしょうか?

「高校の同級生だった相方の阿部浩貴から誘われたことがきっかけです。それと同時に会社経営者である父親への反発の気持ちが強かったんです。でも今になって思うのは、僕にとって父親が“社会”そのもので、それに反発していたんだと気付いたんですよ。僕は父親を通して社会を見ていたんですね。

まあ、今では嫌と思ってもしょうがないことなので、どうするかなって感じですけど(笑)。その時に持っていた違和感は、現在の活動にバリバリ影響を与えていると思います」

――「お笑いをやりたい、やりたい!」みたいな高校生だったわけではないんですね。

「はい。会社を継がないという意思はあったものの卒業後の進路は考えてなくて、オーディションを受けながらそのまま吉本に所属して芸人になっちゃいました。進学率100%の高校だったのに周りも僕らに感化されて、やりたいことやるようになっちゃって。僕らのせいでだいぶ進学率を下げちゃったんですよ(苦笑)。でも、東京で行列のできるラーメン屋をやってる奴もいたり、結果みんなにとって良かったのかもしれないです」

◆番組の“いじり”は「完全に苛められていると思っていた」

――1998年に『吉本ばかな』(日本テレビ)がスタートした時は、まだデビューして2年目くらい。当時は出身地である北海道在住だったそうですね。

「東京は怖いという気持ちが強かったから住みたくなくて、ずっと通いで番組に出ていたんです。そもそもあの番組も、事務所の先輩だったタカアンドトシさんのバーターみたいな感じでオーディションを受けたら、僕たちが受かっちゃったんですよ。正直、やっちゃったなー(汗)って思ってました」

――当時は番組内でもかなりのいじられ役だったとか。

「あれは当時の僕の中では“いじられ”ではなくて、完全に苛められていると感じていました。辞めたいって何度本気で思ったことか。でも、ガレッジセールのゴリさんが気にかけてくれていて。ご飯に誘われるなか『頑張れ』って言われながら続けていたんです」

◆楽屋では怒号が飛び交う…若手芸人の“ギラギラ”に疲弊

――ユニットメンバーの関係性はどういう感じだったのですか?

「ガレッジセールさんとシャンプーハットさんは先輩で、僕たちとライセンスが2年後輩。でも、みんなそれぞれ若手で『ここから売れてやる!』と、ギラギラしていました。その中で僕らは完全にタジタジ。それでもやっぱり芸人たるもの『前に出るもの』と思っていたし、僕も芸人をやるからにはやりましたけど、やっぱり疲弊はしましたよね」

――今の芸人さんたちの空気感とは全く違う?

「ぜんぜん違いますよ。劇場でも芸人同士が仲良いことなんてなかったですし。舞台でネタをやって戻って来たら、あからさまに『へぇ〜ああいうのが面白いんだ』と言われたこともありましたね。ますます僕はお笑いの世界が怖くなってしまったんです(汗)」

――根本的に!?

「楽屋に行けば怒号が飛び交うし、何かやり合ってるし。当時はみんな売れるのに必死だったというか、そういう時代でしたよね。」

――それでも芸人を続けていたモチベーションはどこにあったのですか?

「そこはもう、仕事があるからやるしかないという気持ちでした。ありがたい話なんですけど、当時は『来週も行かなきゃいけないのか……』って憂鬱で、夜の電車に乗って車窓の外を眺めながら涙を流す事もありました」

◆歌の才能が開花。『みんなのうた』が転機に

――アーティストとして歌の活動を始めたのはいつ頃だったのですか?

「2003年くらいです。ライブの企画で『愛の歌を作ってウーピーゴールドバーグと歌う』という夢を掲げてしまって、それをやることが決定してしまったんです。僕はボケで言ったんですけどね(笑)」

――実際に作詞作曲して自身で歌って。周囲の反応はどうでしたか?

「ぜんぜんですよ。みんな『何しとんねん』って感じで。ライブで披露しても受けるでもない滑るでもない、褒められることもない。事務所に『どうですかね?』と言っても何もならない。それが寂しいなと思って、NHKに自分でCDを送ったんです」

――それが『みんなのうた』で放送された「ぬか漬けのうた」なのですね。

「はい。それでも近しい人たちは『う〜ん』と反応はイマイチで。でも、千原ジュニアさんだけが『凄いやん』って褒めてくれたのを記憶しています」

◆心の声をダイレクトに表現できる「歌」に惹かれた

――でも、その後も歌の活動は続けられていますよね。

「『ぬか漬けのうた』がNHKに採用された時に、客観的に歌詞を聞き直してみたら、自分の家とは真逆の家族像、いわば理想を歌っていたことに気付いたんです。その時に歌というのは、心の奥底で思っていることが如実に現れるものなんだと。劣等感、コンプレックスを歌詞にしたためても、聞く人たちがそれぞれ自分に照らし合わせるエンターテインメントなんですよね。

対してお笑いは、嫌なことがあって疲弊していてもそれを隠して『イエーイ!』と楽しませる世界。全く違うエンタメだからこそ、歌も続けてみたいと思ったんです」

――お笑い以外の表現方法を見つけた感覚でしょうか。

「同時に、時勢として子どもの育て方がわからない親が増えていると知り、それに伴って、幼い頃の僕と同じ気持ちを抱えている子もいっぱいいるのでは?と考えました。だから『ぬか漬けのうた』で全国の幼稚園や保育園をまわりたかった。でも歌だけでは門前払いかもしれないので、お笑い食育ヒーロー・野菜戦士ぬかづけマンをつくって活動を始めたんです」

◆お笑い食育ヒーロー「ぬかづけマン」の誕生

――その時、相方さんは?

「ぬかづけマンの敵役に扮して協力してくれました。最初は『何してんだよ!』とは言われましたが、『本当の仲間は僕にはおまえしかいない。おまえも僕しかいないだろ!』って説得して。結局、優しい人なので手伝ってくれました(笑)。でも、やっていくうちにじわじわと相方も食育について『大事なことかもな』と言ってくれるようになったんです」

――相方さんからの理解は得られたのですね。

「はい。でも、事務所から理解はなかなか得られませんでしたけど(汗)」

――そして2022年に2人で事務所を退社し、現在はフリーで活動をされています。

「ずっと辞めようと思っていたけど、辞められなかったんです。相方とは数年間『辞めないか』『辞めたくない』の押し問答でした。僕からすればそもそも相方に誘われて入った世界なので、一緒でないと意味がないと思っていたからです。辞めた今となっては、もちろん元の事務所に感謝しています」

――ありがとうございました!

<取材・文/もちづき千代子>

【もちづき千代子】
フリーライター。日大芸術学部放送学科卒業後、映像エディター・メーカー広報・WEBサイト編集長を経て、2015年よりフリーライターとして活動を開始。インコと白子と酎ハイをこよなく愛している。Twitter:@kyan__tama

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