初のプロラグビー選手・村田亙が作った「海外移籍」の道 日本人でも世界に通用することを証明した

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2025年03月19日 07:01  webスポルティーバ

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語り継がれる日本ラグビーの「レガシー」たち
【第2回】村田亙
(東福岡高→専修大→東芝府中→バイヨンヌ→ヤマハ発動機)

 ラグビーの魅力に一度でもハマると、もう抜け出せない。憧れたラガーマンのプレーは、ずっと鮮明に覚えている。だから、ファンは皆、語り継ぎたくなる。

 日本ラグビーを支えてきた名プレーヤーを紹介する当連載。第1回・平尾誠二に続いて選んだ選手は「村田亙(わたる)」。日本人初のプロ選手となった男のラグビー人生を振り返る。

   ※   ※   ※   ※   ※

 フランス・プロリーグ「トップ14」──。

 近年ではFB五郎丸歩(2016年〜2017年/ヤマハ発動機→トゥーロン)やFB松島幸太朗(2020年〜2022年/東京サンゴリアス→クレルモン)がプレーし、今シーズンはSH齋藤直人(東京サンゴリアス→トゥールーズ)が日本を飛び立って参戦。世界のトップラガーマンが集結するフランスの地に憧れて、みな海を渡っていった。

※ポジションの略称=HO(フッカー)、PR(プロップ)、LO(ロック)、FL(フランカー)、No.8(ナンバーエイト)、SH(スクラムハーフ)、SO(スタンドオフ)、CTB(センター)、WTB(ウイング)、FB(フルバック)

 サッカー界では、いまやヨーロッパへ挑戦することは当たり前の風潮となっている。しかしラグビー界ではまだ、誰もが挑戦するメジャーなステップアップになっていない。

 だが、26年ほど前にそのヨーロッパの舞台を夢見てチャレンジし、日本人ラグビー選手として初めてプロの門戸を開いた選手がいる。

 それが、1990年代を代表するSHの村田亙だ。

 村田は常に、見る者に期待感を与えてくれる選手だった。

 ライバルのSH堀越正巳(当時・神戸製鋼)がパスさばきに長けて安定感のある選手だったのに対し、村田はスピードを武器に「ボールを持ったら何かしてくれる」と思わせてくれる存在だった。

 1991年からプレーしていた日本代表では、SO岩渕健輔とハーフ団を結成。ふたりによる絶妙なコンビネーションプレーは、ラグビーファンをいつも魅了した。

【退路を絶ってフランスリーグに挑戦】

 1968年生まれ、福岡市出身。4歳上の兄の影響もあり、小学校1年から地元の草ヶ江ヤングラガーズで競技を始めた。当初はFBだったが、本人いわく「身長が伸びなかった」ため、中学校からSHに転向。東福岡高校ではSOも経験したが、2年時から再びSHとなり「花園」全国高校ラグビー大会に出場した。

 専修大学ではキャプテンとして関東リーグ戦で優勝を経験し、大学卒業後の1990年に東芝府中(現・東芝ブレイブルーパス東京)へ入団。翌年には早々に日本代表初キャップを獲得し、第2回ワールドカップのメンバーにも選ばれた。

 村田が海外挑戦を決断したのは1999年12月。平尾誠二監督の率いる日本代表で3度目のワールドカップに出場し、次のステージを模索するなかで、村田は誰も踏み込まなかった新たな道を選んだ。

 きっかけは1995年、アマチュア主義だったラグビーのオープン化だ。世界のラグビーがついに「プロ化」へと舵を切ったのである。

 東芝府中時代の村田は、日本屈指のスピードでライバルチームを圧倒した。相手の反則からクイックリスタートで仕掛ける「PからGO」の戦術を駆使し、1996年度から日本選手権3連覇を達成する。

「ボールを持ったら、僕がいく」

 積極的な姿勢で常にチームの先頭に立ち、国内SHの第一人者として君臨していた。

 しかし、村田の胸には去来するものがあった。

「日本ラグビー界でやりきった」

 そう感じた村田は、31歳というベテランながら、海外に行くことを決断する。

 海外クラブへの移籍は、もちろん何事も初めてのこと。チームや同僚に迷惑をかけるという思いもあり、村田は東芝をすっぱりと退社する。

「収入が減っても、一度の人生。今しかできないことだし、このチャンスを逃すと一生後悔する」

 自ら退路を断って、プロ選手としてフランスリーグへ挑戦することを決めた。

【地元フランスのメディアも認めた】

 初めて出場した1991年ワールドカップのあと、村田のもとには海外チームからオファーがあった。それをきっかけに、海外でのプレーを心のどこかで夢見るようになっていったという。

 3度目の出場となった1999年ワールドカップでは、外国籍選手の元オールブラックスSHグレアム・バショップにポジションを奪われる悔しい経験をした。だが、自分から積極的に仕掛けるスタイルは日本より海外の評価が高かったことも、新天地に旅立つ背中を後押しした。

 当初、村田のもとにはイタリアのクラブからもオファーがあった。しかし、村田が契約したプロクラブは、当時フランス2部に属していたバイヨンヌ。世界的にもラグビーが特に盛んと知られている地域だった。

 そんな土地柄のクラブにおいて、村田は「9番」を背負った。フランスにおける9番は「監督になる選手も多く、ゲームを支配するのでキャプテンも多い」特別なポジションだ。

 周囲の期待を胸に、村田は開幕戦で先発出場を果たす。日本人初のプロ選手、誕生の瞬間である。

 すると村田はデビュー戦で、いきなりトライを挙げて勝利に貢献。一気にチームメイトや地元ファンからの信頼を得た。ベテランながらスピードを武器に自ら仕掛け、同時にパスも展開するオールラウンダーとしてバイヨンヌで躍動した。

 村田の海外挑戦は、2シーズンで幕を下ろす。再び日本代表に招集されたことで、地元ファンに惜しまれつつもフランスに別れを告げて、ヤマハ発動機(現・静岡ブルーレヴズ)に入団することにしたからだ。

 海外に残ってプレーする姿をまだ見てみたい──と思ったファンは、日本でも多かったはずだ。だが、フランス・ラグビー専門紙が選ぶマン・オブ・ザ・マッチに17回選ばれ、カップ戦も含めて40試合に出場し7トライを挙げるなど、村田は大きな爪痕をフランスに残した。

 日本に戻ったあと、村田はその豊富な経験を生かしてヤマハ発動機の関西リーグ初制覇、日本選手権ベスト4などに貢献。37歳で日本代表最年長キャップ(当時)獲得、40歳でトップリーグ最年長出場記録(当時)更新など、最後まで記憶と記録に残る選手として活躍し、2008年にスパイクを脱いだ。

【日本ラグビー界の歴史を変えた】

 現役引退後は、セブンズ日本代表でのキャプテン経験を生かして男子7人制ラグビー日本代表の指揮官に就任。その後は母校・専修大ラグビー部の監督を歴任し、現在もセブンスの選手への指導や小中学生へのラグビーの普及にあたっている。

「スクラムハーフは身長が小さくてもできるポジションだし、身長が小さいというコンプレックスを持っている分、気持ちの強い選手が多い(村田は公称172cm)」

 かつて村田がそう話していたように、持ち前の負けん気で、常に世界のラグビーシーンに挑戦を続けたラグビー人生だった。

 村田の海外挑戦に刺激を受けて、2002年にはFL/No.8斉藤祐也(サントリー→USコロミエ)、2003年にはWTB大畑大介(神戸製鋼→モンフェラン)が追うようにフランスリーグに挑戦した。

 そして2012年になると、SH田中史朗(パナソニック→ハイランダーズ)とHO堀江翔太(パナソニック→レベルズ)が日本人として初めてスーパーラグビーでプレーする。日本人選手が世界に羽ばたく数は、少しずつだが増えつつある。

 日本人選手でも海外のプロリーグで対等にプレーできる──。

 初のプロ選手として日本ラグビー界の歴史を変え、それを証明したのは、常にチャレンジ精神を持ち続けた身長172cmの九州男児だった。

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