
大阪桐蔭初の春夏連覇「藤浪世代」のそれから〜藤浪晋太郎 全4回(1回目)
ネットニュースで"藤浪晋太郎"の名を見つけると、軽い緊張を覚える。今日はどっちの藤浪か──。もはや身内のような気分で、記事を確認する生活が今年も始まった。
それにしても、投球が乱れた時のネット記事のコメント欄を目にするたび、鬱々とした気分になる。たとえばオープン戦で2/3イニングで4失点の登板を伝えたニュースの時も、辛辣なコメントが並んでいた。40人枠入りを目指し、異国の地で生き残りをかけて戦う者に、なぜこれほど厳しい言葉をぶつけるのか......。
この男なら束になって叩いても大丈夫、と思うのだろうか。そんな話を本人に向けると、「キャラ的に叩きやすいんでしょうね」と返ってきた。
「まあ、いろいろつらいのはつらいですよ。ネットは必要なものしか見ないようにしていますけど、書かれたりするものとは別に、去年はずっとよくなくて、肩の状態もあって思うようなボールを投げられなかったですし。つらいことはそれなりにありますけど、最後はいつも思うんです。『好きな野球を、自分が選んだ場所でやっているんやから』って」
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昨年12月半ばに日本へ帰国し、年が明けた1月、トレーニングを続ける合間に時間をつくってくれた。
【プエルトリコでの経験】
「お久しぶりです」
黒で統一された服装で待ち合わせの喫茶スペースにふらりとひとりで現れた姿からは、独特のオーラが漂っていた。
話はまず、12月半ばまでプエルトリコで開催されていたウインターリーグの話題になった。
「感じは悪くなかったですし、最後の試合は特によかったです。とにかく、これもいい経験でした」
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先発で6試合、20回2/3を投げた。通訳もなく、ひとりで過ごした異国での経験を苦笑い交じりに続けてきた。
「開幕で投げたんですけど、その2日前に投球練習をしたいと言ったら、『ブルペンは工事中で完成してないから無理』って言われて(笑)。ウエイトルームもトレーニングルームもないですし、ロッカーもベンチ裏もゴミだらけ。
マウンドに行ったらロジンがなく、要求したらチームにひとつしかなく、ブルペンにあるからすぐには用意できないと。2回からはちゃんとありましたけど(笑)。日本の高校野球のほうが環境いいやん、なんなら中学野球のほうが......とか思いながら、『これも野球。こういう環境もあるよね』って感じで投げていました」
メジャー関係者へ向けたアピールの場であったが、状況をすぐに受け入れ、約1カ月を過ごした。
アメリカでの2年、まだ確固たる結果を残せていないが、異国での暮らしを表情豊かに語る姿からは、成績とは別のところで多くのものを経験し、たくましさと人としての魅力が伝わってきた。
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昨年末に帰国した際、澤田圭佑(ロッテ)や白水健太ら大阪桐蔭時代のチームメイトに加え、2012年に甲子園春夏連続決勝で戦った光星学院(現・八戸学院光星)OBで、藤浪とは阪神でチームメイトだった北條史也も参加して、ゴルフや食事を楽しんだ。そして年が明かると、大阪桐蔭の練習グラウンドへと向かった。
「西谷(浩一)先生とも、特にこれっていう話はしてないですけど、選抜に出られないのが6年ぶりなので、夏に向けて一からやり直すって感じで言われていました」
訪問時の空気を伝えつつ、「あらためて」といった口ぶりで続けてきた。
「今の大阪桐蔭は甲子園に出て当たり前、勝って当たり前と見られますからね。自分たちの頃とは違って、選手たちも大変だと思いますし、すごいチームになりました。そもそも今の大阪桐蔭なら、自分は入れていなかったと思います。実際、中学の時も大阪桐蔭から熱心に誘われたわけではなかったですし、西谷先生も『縁があれば......』というくらいの感じだったと思います」
そんなすごいチームへの大きな流れをつくったのが、藤浪がエースとして君臨した2012年の春夏連覇。
あらためて、藤浪はどのような経緯で大阪桐蔭に入ったのか。
【エリートではなかった中学時代】
藤浪は小学2年の時に父が指導を務める軟式野球チームの竹城台少年野球クラブに入団。小6になると、エースで4番として活躍。中学になると硬式のクラブチーム・泉北ボーイズに所属した。中学3年になる頃には評判が広がり、関西圏にとどまらず、高校野球関係者の興味をひく選手になっていた。ただ本人は、進学先を考える際に明確な基準を持っていた。
「甲子園に出場するだけでなく、先も考えて......大阪のどちらかに行きたいと早くから思っていました」
藤浪の言う「大阪のどちらか」というのは、当時2強を形成していた大阪桐蔭とPL学園のことだ。
「大阪桐蔭は、自分が小学5年の時に辻内崇伸さん(元巨人)、平田良介さん(元中日)に1年生の中田翔さん(中日)がいたチームで、夏の甲子園でベスト4。中学2年の時には、浅村栄斗さん(楽天)らの活躍で全国制覇。甲子園にも試合を見に行きましたし、憧れのチームのひとつでした」
大阪桐蔭が高校野球界で確固たる地位を築き始めた時期で、中学生の興味を引くには十分に魅力を持ったチームだったと思うが、藤浪は慎重だった。
「全盛期ほどではなかったとしても、やっぱりPLは強かったので、しっかり考えました」
当時のPLは、藤浪が小学4年の時に夏の大阪大会決勝で大阪桐蔭との引き分け再試合を制して甲子園へ。この時に活躍したのが1年生の前田健太(タイガース)で、2年後の3年春にも選抜で大活躍していた。
「そのあとも中野隆之さん、勧野甲輝さん(元ソフトバンク)、吉川大幾さん(元巨人)が甲子園で活躍され、魅力がありました」
そこに泉北ボーイズの監督がPL出身というつながりもあった。ただ、2強への強い憧れを抱きつつも、当時の藤浪にずば抜けた力があったかと言えば、実はそうでもなかった。西谷が当時の藤浪を回想する。
「僕が見に行くと、よく打たれていたんです。140キロを超えたという評判を聞いて見に行くと、僕の感覚では130キロくらいの感じだったり......。毎回『そんなにええか?』と思いながら、実際の力がどのくらいなのか、わかりかねていました」
そこに関しては、藤浪の記憶とも一致する。
「3年の時もオール枚方というチームにボコボコにされたり、けっこう普通に打たれていました。だから西谷先生も『背が高いだけで、どこかで化けてくれたら......』というくらいの感じだったと思います」
【西谷監督の心を動かした「練習のできる子」】
最終決断は、中学3年の11月。その頃、西谷には藤浪獲得に積極的になる出来事があった。
その年の夏、大阪桐蔭の4番を打っていた中谷良也という選手は、泉北ボーイズ出身だった。ある時、西谷が「藤浪ってどう思う?」と中谷に尋ねてきた。すると、翌年から同志社大に進む右のスラッガーは、「いいですよ、特にスライダーが。ウチに来たら、絶対に力になると思います」と即答した。中谷が藤浪を推したのには、ちゃんとした理由があった。藤浪が説明する。
「中学3年の9月の終わりか10月頭に、泉北ボーイズのOB戦があって、そこで中谷さんから3つか4つ、三振を取ったんです。それがあって、西谷先生にいいように言ってくれたんだと思います」
加えてもうひとつ、西谷のなかに藤浪への関心が高まる別の理由もあった。
ある日、泉北ボーイズの練習に足を運び、グラウンド脇のプレハブ小屋でチーム関係者と話し込んだあとに外へ出た時だ。話し込む前にグラウンドを走っていた長身の少年が、まだ外野を走っていたのだ。西谷が振り返る。
「おそらくポール間を1時間くらい走っていたと思うんです。それを見て、『練習のできる子やな』という印象が頭に残ったのはありました」
三度の飯より野球好きの子どもとグラウンドに立ちたい──そう望む西谷にとって、その姿は「一緒にやりたい」と思わせるには十分だったのだろう。
最後は、藤浪本人が両校の練習を見て決断した。
「どちらもレベルの高さを感じましたが、フラットに見た時に、練習に活気を感じたのが桐蔭で、『ここでやりたい』とひかれるものがありました」
ようやく道は決まった。
(文中敬称略)
つづく