
語り継がれる日本ラグビーの「レガシー」たち
【第3回】今泉清
(大分舞鶴高→早稲田大→サントリー)
ラグビーの魅力に一度でもハマると、もう抜け出せない。憧れたラガーマンのプレーは、ずっと鮮明に覚えている。だから、ファンは皆、語り継ぎたくなる。
第1回・平尾誠二、第2回・村田亙に続き、選んだ選手は「今泉清」。サントリーや日本代表でも活躍したが、やはり早稲田大学時代の躍動を強烈に覚えているファンは多いはずだ。
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「イーチッ、ニーッ、サーンッ、シーッ、ゴーッ!」
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183cmのスラッとした長身で、端正な顔立ちの大学生ラガーマンが、プレースキックを狙うためにボールをセットする。そしてキックの助走で後ろに下がろうとする時、会場に駆けつけたファンからは彼の歩数に合わせて、数字をカウントするコールが大合唱される。
本来、プレースキックを蹴る時は静粛にするのが、ラグビー界の暗黙のマナーだ。しかし、今泉清が蹴る時だけは例外だった。それはまさしく、「アカクロのスター」にだけに4年間、認められていた特権だった。
プレースキック時のかけ声は、今泉が早稲田大1年生の時の「早慶戦」で、慶應義塾大サイドからのヤジがきっかけで始まったという。
「これはヤジではなくて、みんなからの応援だと思い込めばいい」
後ろに下がる歩のリズムは、本来もっと早かった。しかし今泉は、あえてそのかけ声のリズムに合わせて下がったことで、独特の間合いが誕生した。
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今泉の祖父は、大分県で有名な「トキハデパート」の創始者。母に勧められて、6歳から大分ラグビースクールで競技を始めた。小中学校時代はサッカーも興じていたが、浪人の末、全国レベルの強豪・大分舞鶴に進学してラグビーに専念。高校ではBKではなくFWのバックローとしてプレーし、FLのポジションで高校日本代表に選出された。
※ポジションの略称=HO(フッカー)、PR(プロップ)、LO(ロック)、FL(フランカー)、No.8(ナンバーエイト)、SH(スクラムハーフ)、SO(スタンドオフ)、CTB(センター)、WTB(ウイング)、FB(フルバック)
【語り継がれる1987年・雪の早明戦】
早稲田大ラグビー部に入部した当初もFLだった。しかし、菅平高原で実施された夏合宿の練習前にゴールキックを蹴っていると、早稲田大を率いていた木本建治監督の目に止まった。
木本監督はその正確なキックに才能を感じ取り、今泉をWTB/FBにコンバートした。
「入部する前年度、早稲田大はシナリ・ラトゥさんのいた大東文化大に敗れて大学日本一を逃したのですが、BKに外でボールをキープできる選手がほしいということで、僕とNo.8だった藤掛三男をコンバートしたようです」(今泉)
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WTB今泉は、CTB藤掛、SH堀越正巳と「1年生トリオ」として躍動。アカクロデビューとなった筑波大戦で勝利に貢献すると、その勢いは試合ごとに加速していった。関東大学対抗戦、大学選手権、そして日本選手権では東芝府中(現・東芝ブレイブルーパス東京)を下して日本一に輝く。
ちなみにこの年の早稲田大の日本一を最後に、大学勢は日本選手権で優勝していない。そして今泉は在学4年間で、対抗戦優勝2回、大学選手権優勝2回、日本選手権優勝1回という輝かしい成績を残した。
2024年12月、大学ラグビー伝統の一戦「早明戦」は記念すべき100回目を迎えた。その100年を超える歴史のなかで「最もインパクトのあった早明戦は?」と聞かれれば、1987年の「雪の早明戦」を挙げる人も多いだろう。
今泉は早稲田大1年生。前日深夜から降った雪はグラウンドに降り積もり、それをスタッフが懸命に除雪してキックオフを迎えた。今泉は1年生ながら存在感を示して得意のキックをふるい、2本のPGを確実に決めた。そのリードを最後まで保ち、終盤の明治大の猛攻をしのいで逃げ勝った。
1990年の早明戦も、今泉の名前を全国に知らしめた一戦だ。WTBからFBに転向した今泉は大学ラストイヤー。22回目の全勝対決となった早明戦は、東京・国立競技場に6万人の大観衆を集めた。
【今泉がNZに残っていたら...】
試合は終始、明治大が優勢。後半37分まで早稲田大は12-24とリードされていた。しかし後半38分、早稲田大キャプテンの堀越がWTBにパスを通してトライを挙げ、6点差まで追い上げる。
そして迎えたロスタイム。ラストプレーとするべく相手の蹴ったキックオフを早稲田大はクリーンキャッチし、すかさずモールを形成して左に展開。そこで早稲田大は、合宿から練習してきた「飛ばし横」というサインプレーを実行する。
「光の道が見えた」
SOから飛ばしパスが放たれたボールが、アウトサイドCTBを経由して手元に渡ってきた時、今泉はそう感じたという。
今泉は快足を生かし、斜め左へ大きなストライドで加速。必死で止めようする明治大のタックラーをかわし、80メートルを独走してトライ。早稲田大はその後のゴールも決めて、24-24の同点でノーサイドを迎えた。
大学卒業後、今泉が新たな挑戦の場として向かったのは、ラグビー強豪国ニュージーランド。早稲田大の臨時コーチとして今泉を指導し、のちにオールブラックスの指揮官となるグラハム・ヘンリーに「世界を目指しなさい」と言われたことも大きく影響を与えた。
ラグビー留学先に選んだのはオークランド。当時のオークランド州代表は「オールブラックスの次に強い」と評されるほどの強豪チームで、今泉はその地で研鑽を積んだ。2シーズン過ごしたのちに帰国するが、そのまま今泉がニュージーランドでプレーをしていたら......と想像せずにはいられない。
「1995年のワールドカップに出場したかった」
その夢を叶えるため、今泉はニュージーランドを離れてサントリーに入団。鳴り物入りでやってきた今泉は社会人1年生ながら強烈な存在感を放ち、1995年のワールドカップ日本代表にも選ばれることになった。
ただ、オールブラックスに145失点を喫した歴史的大敗も含めて、今泉はリザーブに名を連ねたものの、ワールドカップのピッチに立つことは一度もできなかった。
【日本代表はわずか8キャップ】
日本ラグビー人気に大きく貢献した今泉は、2000年度の日本選手権後にスパイクを脱いだ。その後は早稲田大やサントリーフーズのコーチを歴任し、現在はラグビーの指導だけでなく、その経験を活かしてビジネス向けの講演でも活躍している。
日本代表の通算キャップ数は、わずか8──。ファンを魅了した予測不能なプレースタイルが、日本代表に定着できなかった要因になったのかもしれない。
1995年に世界のラグビーはオープン化(プロ化)に舵を切るが、アマチュア主義だった日本ラグビー界において、自由奔放な今泉はそれを窮屈に感じていたかもしれない。もう10年......いや5年後に生まれていたら、また異なったラグビー人生を送っていたのではないだろうか。
そう思わせるほど、強烈な輝きを放ったスター選手だった。